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今夜の番組チェック

東海道五十三次[戸塚宿2]
2001/10/07 歩破
AM9:50 戸塚駅を出発
前回、見れなかった妙秀寺に向かう。
妙秀寺には安藤広重の東海道五十三次、戸塚の浮世絵に描かれている道標があるのだ…
前回は妙秀寺到着が17時過ぎのため見れなかったのだ…
途中、吉田大橋の欄干に描かれている浮世絵を見る、いずれも
戸塚に関するものだ。
橋を渡り50m程歩くと道路と平行に一里塚跡の縦看板が有った。これも前回探したが見逃していたも
のだ。
薄暗いのと、疲労のため見落としたのか…
【相模国風土記稿】一里塚:東海道路傍に
あり、双こうなり、南方は原宿村、北方は品濃村の里こうに続けり
その一里塚跡の看板の先を右折し路地に入り100m程で左手の2m程上に妙秀寺の山門が目に入る。
階段を上ると、先日と同様に入れない…しばらく山門の前にウロウロしたが、別の入り口が
あるはずと、階段を下り、右側に回った。
有りました、新しい寺の建物と入り口が....入ってすぐ真正面に「左かまくらみち」の石柱がドーンと有りました。
浮世絵では「道」が実物では「みち」となっていました。
妙秀寺を出て、再び吉田大橋を渡り矢部町に入る。
【相模国風土記稿】矢部町:当所は即戸塚
三箇町の一なり…東西10町、南北8町余、民戸118...東海道村東を通ず、幅4間、柏尾川:
東方吉田町境を流る、幅8間、東海道の係る所板橋を架す、大橋と呼べり、此橋吉田・矢部
両町に係れり、岸辺に堤あり、高さ9尺…
橋の右手、川沿いに続く道がある、これが「八王子道」である。
その道の20mほど先に道標と庚申があった。
道標には正面に「上矢部 淡島大明神 道十丁」左面に「ふしのや八王子道」右面「宝暦12年」
と刻まれていた。
また庚申には天保?の銘が見られた。
矢部町を抜けJRの踏み切りを渡る、ようやく戸塚だ、すぐ左手に醤油作りの松本屋の蔵が有
るが、黒いペンキで塗ったようなトタン?で囲ってあり残念。
少し先に進むと右手に清源院の入り口がある。短いが急な階段を上ると、右手に芭蕉の句碑が
ある。左手奥に心中句碑が有ったが、やけに粗末に置かれていた。
芭蕉の句碑の脇に石段が有り、上には古い墓が多く見られた。
このあたりからが、本当の戸塚宿である。
【相模国風土記稿】戸塚宿:当所(戸塚宿)
及び隣村吉田、矢部両町を加へ戸塚三ヶ町と唱へ…古くは富塚と書す。
戸塚宿には上宿、中宿、台宿、天王町、八幡宿、田宿、西ノ久保の町があり、東西8町、南北
28町 戸数265の規模で 敷内本陣 台宿に一戸、中宿に一戸、脇本陣、台宿に 一戸、中宿
に二戸、旅舎大十九戸、中小各二十戸…
街道に戻る、道路は左に大きくカーブしてバスセンター前のT字路の真すぐ先が旧東海道である。
車の大半が右折し、旧東海道への車の量は多くは無い。歩いて行くと左手に消防所が有り、その
手前の1m程高くなった所に沢辺本陣跡の石碑が建っていた。
さらに先に行くと八坂神社が有り、文化財となっている踊りについての説明の立て札が立って
いる。小さいがスッキリとした感じの神社であった。
道路はT字路となっており、東海道は直進、左折すると鎌倉への鎌倉道が続いている。
【相模国風土記稿】鎌倉道:東海道は幅凡
4間許、鎌倉道、田宿より東に分れ上倉田村に達す、柏尾川、鎌倉道に係る所板橋を架す、長
さ8間、高島橋と称呼す。川に傍て堤あり、高さ7尺…
そこから150m程で富塚八幡宮だが手前に明治時代の建物と思われるような古そうな家が一軒有
った。
その先が戸塚の地名の由来となった富塚八幡宮、境内にはイチョウの木が植えられており、
その銀杏の臭い匂いがしており、銀杏拾いをしている親子が見られた。

この八幡宮の上には古墳があると書いてあった。
街道に戻り、歩いて行くとファミリーレストランの左側の歩道に所に上方見附の石積が有り、小さな
松ノ木が植えられていた。
石積の石を見るといかにも新しく再現されたものであるのは明らかであった。
道路の反対側を見ると民家の塀の所に同じような石積が見られた。こちらの方がまだ古そうであった。
まあ、道路の幅を考えれば右側の見附の位置が本当の位置であろう。
江戸見附と上方見附の間は2.2kmとの事である。
見附を過ぎると道路は左にカーブし、上り坂となっている。
これが大坂である。道路の右は山に面している事からも旧東海道は右側がそのままであろう。
大坂の途中の右側に大きな道祖神がある。今日は曇り空でハイキング日和で有るが、かなり暑
く、大坂の9合目あたりのコンビニで飲み物を補給した。そこからまもなく旧街道は国道1号線
と合流した。
このあたりから汲沢町となる。
【相模国風土記稿】汲沢町:>民戸48、東西
18町、南北17町 東海道幅4間…
一号線は日曜日のためいつもより一層車が渋滞していた。このあたりは山の尾根沿いの道路
で左下には住宅地、更には鎌倉の山々を望みながら歩く、車の通行量が多く、排気ガスもひ
どいが、中央分離帯に木が植えられているのがせめてもの救いだ。
途中バス停の所に「お軽、勘平道行の碑」がある。その碑を過ぎると、道はようやく下り坂
にさしかかる。
吹上の信号からは左手前前方に晴れた日には富士山が望める、ここから道路情報の渋滞の
メッカ原宿町だ・・・。
道路の右側に小山?左に小さな丘を切り通した地形を一号線が通っている。これが原宿の一里
塚跡であった。
明治の初期の道路工事の際に取り壊したとの表示が有った。
国道を隔てた岡の上は浅間神社があり、巨大な椎(しい)の木が何本も有った。
いずれも横浜市の銘木、古木に指定されている。
【相模国風土記稿】原宿村:民戸52 東西
9町6間、南北20町20間、東海道:幅4間、長さ20町20間、当所は立場なり、字台と呼り、戸塚
宿へ33町、藤沢宿へ1里3町、秣(まぐさ)場村内8戸あり、一里塚:双こう
なり、塚上に松樹を植う、東戸塚宿、西方、藤沢宿の里こうに続けり
この先影取町あたりには道祖神や馬頭観音が多いと本に書かれていたが、馬頭観音だけしか
気づかなかった。それも風化して解読できない碑と比較的新しい「馬頭観音」と書かれた碑だ
け....。
この辺は東海道の東は影取町、西は東俣野町となっている。
【相模国風土記稿】東俣野村:民戸71、東
西9町、南北16町、東海道東界に係れり、幅5間……
山谷新町:戸数22、南北12町余、東西は入込み不詳、東海道村の西界を達
す、幅3間より4間半に至る、立場あり、字影取立場と呼り、藤沢へ26町
、戸塚へ1里10町・・・・影取:此所に僅(わずか)の清水流る、土俗
伝て、昔は池あり、池中に怪魚すみ、夕陽に旅客の影、池中に投ずるを喰ひしょり、影取の
名残れりと云う
排ガスにまみれながらひたすら一号線を藤沢宿に向かい歩き続け、国道1号線は茅ヶ崎へのバ
イパスへの道と、旧東海道に分かれる。
その先の旧東海道の左手に萱葺の門の家がある。この家が【東海道分間延絵図】のガイドに
載っている山谷新田の元名主の家の門である。
いよいよ藤沢宿だ。
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