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品 濃
2001/10/02 歩破
焼餅坂を下ると、街道は緩やかに右にカーブしながら再び上り坂となる。
谷宿坂だ、坂の左側は20m程の山となっており、急斜面で木が覆いかぶさるように生えてい
る。
その斜面の下にポツンと道祖神があった。
この道祖神は東海道分間延絵図の谷宿坂の左手に庚申として記載されている。
カーブを曲がりきると道はさらに狭くなり車の交差ができない位の道幅となる。
道路の左側は宅地の基礎のコンクリートが3mほどむきだしになっており、そのコンク
リートが切れたあたりは急斜面の山となっている。
右側は木がうっそうと生えており、山を切り通したような感じとなっていた。
ここが品濃の一里塚であった。
想像ではもっと道幅があり、開けた所に有ると期待していたのだが…道の両側の塚を
見通すロケーションが無いためもあるが、自然の地形をそのまま利用して、作った一
里塚という感じであった。
右側(西)の塚の裏は公園になつており、回って見ると、一里塚の形が伺えた。
左側(東)は私有地のため立ち入る事も出来ず残念だった。
2002/12/09通勤途中の国道1号線が朝からの雪で大渋滞…
裏道に抜け、会社に....と通ったのが品濃の一里塚の傍、そこに偶然にも一里塚公園
を発見、丁度東側の塚の裏手にあたり、キチンと整備されていた。
西側の塚とは大違いであった。
塚の脇には年号の不明瞭な庚申塚も有った…。
後日、カメラを持って再訪したが、その際に焼餅坂を通りまたまたビックリ、坂は
切り崩され、拡張され、近くにマンションが出来、昔の面影は全く無くなってしま
っていた…予想されていたとは云え、こんなに短期間で…
改めて良い時期に歩いたと思った。
「一里塚説明立札」より
1604年徳川幕府は5街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑化を図りました。
それと同時に当時あいまいであった駄賃銭を決めるために江戸日本橋を起点とした
距離が判るように、明確な里程標が必要になりました。
そのため街道の両側には一里(約4Km)ごとに五間(約9m)四方の塚が造られ、塚の上には
エノキやマツが植えられました。これが一里塚です。
ここ品濃の一里塚は日本橋から9番目の一里塚で保土ヶ谷宿と戸塚宿の中間に位置しています。
旧東海道をはさんでほぼ東西に2つの塚があり、地元では「一里山」と呼ばれていました。
東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えら
れていました。このように道の両側の塚がほぼ当時の形で残っているのは神奈川県内では
この一里塚だけです。
【相模国風土記稿】品濃村:民戸58 東西
15間、南北30町 村の東界に東海道、幅3間…一里塚:谷宿坂(焼餅坂の南に
あり)の南にあり双こうなり、南、吉田町、北武州橘樹郡の里こうに続けり」品濃坂
:谷宿坂の南にあり下2町…
平戸村:戸数47 広12町 袤15町 東海道西方村界に係る、幅5間…
一里塚を越え、道はそのままの幅で山の尾根沿いの道を歩く形で続く、住宅が切れたところ
で左前方に鎌倉の山々が望めた。
その付近から道は右にカーブし、下り坂になる。そして二股に道が分かれる所に右旧東海
道の標識があり、そこから急な下り坂になります。これが品濃坂で、まっすぐ下ると
JR東戸塚駅でかなりの標高があります。
品濃坂は環状2号線で分断され、横断歩道橋で繋がってます。
横断歩道橋のたもとには旧東海道の地図が描かれた銅板が有りました。
横断歩道橋を渡り、右側の道路を下りました。途中、品濃公園が有り、更に下った所で、
旧東海道を見失い、右往左往したが、何とか川上川につきあたり、旧東海道に合流した。
旧東海道は国道1号線を越え再び国道1号線に合流するまで川に沿って続いている。
環状2号線からの旧道は判らず仕舞である…もうチョットしっかりした道路標識が欲しい
と感じた。
この日は見えなかったが、晴れた日には坂の正面に富士山が見えます。
江戸期と現在の品濃坂
下の写真は1860年頃の「品濃坂」である。写真の風景から(高さから)現在の環状2号線の
あたりの坂の様子と想像されます。右の写真は坂の頂上付近です。
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