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鎌倉古道 下の道
2003年1月 栄区の「六人会」の方から、歩いた道と異なるコースがあり、他にも弘明寺の道標が
有る事をお教え頂きました。
弘明寺道は
「鎌倉下の道」
で有ることは解っていましたが、ネットで「鎌倉下の道」を調べて見るも
参考になるものは全く無く、地図を頼りにまず、歩いて見ることにしました。
もう一つの鎌倉古道を歩く
鎌倉を出て、新橋までの道は江戸期は浦賀道として重要な幹線道であった。
新橋から左に分岐する鎌倉古道は小菅ヶ谷村を通り、舞岡公園の南側を通る。
舞岡公園に入る手前の左手の大木の所に道標を兼ねた庚申がある....。
(ここまでは「弘明寺道」を参照して下さい。)
そのすぐ先右にフェンスとフェンスの間を通る山道がある、道はヤブに覆われてはいるが、鎌倉古道
特有の掘割状になっているように思われる。
実は初めてここを歩いた時に、この道を覗いて、ひょっとしたら鎌倉道跡?と思ったのだが...
予感は的中していたのだ。(だと思う)
この道の先はおそらく久遠寺霊園の入り口に繋がるだろうと事前に見た道路地図より想像していたが、それも的中、正面に霊園入り口
が見えた、しかしながら出口の目前でヤブが深くなり、更には出口がフェンスで塞がれ通り抜け出来なく
なっていた。
出口まで行くヤブの小道の右手の1段高い所がヤブに覆われてはいるが、古道だったのでは?と思う。
現在の道と交差した道跡は(右手にはレッカー会社の建物がある)久遠寺墓地の入り口の右側に
かろうじて解る程の細い道として雑木林の中に続いている。
この道もヤブに覆われ顕著な掘割状の道の形状は見られない...墓地との境界にあるフェンスに沿い、道は
続く....入り口が10m程急な上り坂だが、それからは歩きやすい道だ、普段でも歩く人がいるのか、
道ははっきりしていた。
出口近くで、掘割状の道が見られるが、途中の道もヤブを取り払うときちんとした古道が
浮かび上がるのではないだろうか?
山道の坂を下ると谷沿いに田園風景が広がる...道の左手に2つの馬頭観音と庚申供養塔がある。
庚申には寛政12年(1800)の銘が読み取れた。
栄区の「六人会」の方からお教えいただいた庚申がこれのようで、その資料によるとこの庚申は道標を
兼ね「下ぐめうし道 坂とつか道 左かまくら道」と刻まれていると書かれている。
残念ながら、道標となる文字は見えなかった。期待していたのだが残念....
もし、道標が有ったとしたら、今歩いて来た道は戸塚からの道となる。
道を東北東に進むとこの道に合流する1本の道がある。
この道を左に入りると、左手に石段が見える。
これが西長院跡で、石段を登ると境内だったと思われる所に石仏が並んでおり、左から正徳4年(1715)、飛んで、
享保8年(1724)...の銘が読み取れた。
何故、廃寺になったのか、どういう寺だったのか、家に帰り、ネットで調べて見るも解らなかった。
いずれにしても、寂しい所で気味の良い所ではなかった。
本道に戻り先に進むと、変則十字路にあたる、その右手奥の山すそに堅牢地神塔、庚申塔がある、それぞれ
明治13年、延宝8年(1681)の銘があった。供養塔は道より高い所にあり、そこまでの苔むした石段が、歴史を物語
っているようであった。
道を左にとり歩いて行くと、野庭高校の手前から道は二股に分かれる、古道は左手で、馬洗川に沿って
、昔ながらの面影を残しつつ、緩やかに蛇行し川下に向うが、道の左手の斜面の雑木、ヤブは切り出
され斜面がむき出しになっている....、古道の上を新しい道路が通るようで、木々の伐採はそのための下準備のよう
である。
おそらく数ヶ月前までは、雑木林に通る道で有ったと想像される。
そう考えると残念であるが、来年はこの道は無いだろう....いい時期に歩けた....。
川を隔てた向こうは高台になっているが、地元の言い伝えでは、高台の最高部の野庭中央公園
あたりに関城の本丸があったようで、右手下7〜8mを流れる馬洗川は関城の水堀跡との言い
伝えがあるそうだ。
歩いて程なく、古道は住宅街に入るも、車1台がかろうじて通れる狭い道が続く。
戸塚と清水橋を結ぶ道路に架かる天谷橋の下を旧道は通るが、その手前はゆるい上り坂で
竹林の有る古道の雰囲気をかもしだしている場所であった。
(道の左側は台で、右手下は馬洗川が流れている。)
天谷橋を超えしばらく行くと道はゆるやかに蛇行しながら下っていく。
道をかなり下った所で古道は馬洗川と交差する橋を渡る、このあたりから、道の左右はひらけ更に
馬洗川支流に架かる橋を渡ると右手に港南区の図書館が見える。
そのチョイ先の地下鉄の高架をくぐるあたりから再び右手に山が迫ってくる。
そこから右後方に入る道があるが(港南区図書館の前の道)、この道も実は古道であった。(別途、記載)
道なりに真直ぐ進むと右手に流れていた馬洗川は暗渠となり、環状2号線にぶつかる、その手前の左手に小さな
供養塔があった。(安永5年(1777) 寛登童子 と刻まれている)
川で亡くなった子供を供養するものと思われるが、このあたりに滝が有り、滝つぼのあたりが
丁度、馬を洗うのに良い場所であったようである。
【相模国風土記稿】永谷上村 馬洗川南北に貫けり、幅3間、元禄国図にも馬洗川と載す。
鎌倉古路係りし頃、此流れにて馬を洗いしにより、此名ありと伝う」
鎌倉時代尼将軍といわれた北条政子が騎馬を疾駆してこの地を通り、汗と埃にまみれた騎馬を洗った
ことによると言い伝えられている。
環状2号線を渡り、右折、北側に2号線に沿う道がある(これが旧道?)左手は上永谷の台である、道は
ゆるやかな上り坂である。
300m程行くと、車がようやく交差できる位の道幅の左に上る坂道がある、これが古道で、上っていくと
左手に相武山小があり、その坂道を上りきると、尾根道となり右手に上大岡方面の町並みが望める。
相武山小から300m程で、横浜市立南高校前のT字路になる。
ここから更に続く尾根道を通り餅井坂までが「鎌倉古道本道」である。
この先は、「弘明寺道」に記載済み、参照願いたい。
鎌倉古道 七里堀を探る
「弘明寺道」の参考書とした「かながわの古道」阿部 正道著によると南高校のあたりは
久保村 小名 七里堀であったそうで、風土記稿に金井村より吉原、松本、久保、最戸、別所、中里の
六ヶ村を経て引越村に通ずる里程七里許をもって唱う
とあり、尾根道で、
南高校→迎陽トンネル→日野南小学校→小菅ヶ谷、宿の谷→本郷台西方→新橋
と続いていたようである。
この道はその形状からもかなり古い道と思われ、この道を探って見る事にした。
【新編武蔵国風土記稿】松本村:郡の西にあり....もとは当村及関、雑色の三村
を合て下郷と唱う.....東は大岡川を隔、上大岡村に隣り、巽の方は関村にして南は雑色村
に至る、坤の方は吉原村に続き西は相模国鎌倉郡永谷上村に至り、北は当郡久保村なり、
東西十丁許、南北十五六丁、江戸日本橋より行程十里.....
村内を貫ける往還は金沢道にして上大岡村より入り関村に達す、村に係ること同五丁、幅
一間許
又村の西の方に一條の道あり鎌倉古道にして七里堀と呼ぶ久保村より入、村内十五六丁を
へて相模国鎌倉郡下野庭村に達す、山道なれば道広狭あり
色々な文献を探して見たが、新編武蔵国風土記稿に「七里掘」の記述がわずかにあるも
残念ながらこの道(七里堀)を詳しく探る資料は見つからなかった。
そこで、いつものように道路地図を見ながら想像を膨らませ、南高校を起点に七里堀を探りつつ、
小菅ヶ谷まで歩いて見ることとした。
南高校から相武山小学校を経て環状2号線に抜ける古道は右の地図のよに、2ルートがあったようである。
東に迂回するルートはゆるやかな下り坂で西側の坂はそこそこ急坂である。
おそらく七里堀は東のルートを通ったのであろう。(西のルートは新しいものであろう...)
南高校から相武山小学校の前を左に坂を下る道も考えたが、この道では、迎陽トンネルの上を通るに
しては、迂回のしすぎと、思われ、今回のコースを決定した。
環状2号を渡り下野庭公園まで坂を上る、公園をつききり、ゴルフ練習場の先が丁度、尾根道
であるが、残念ながら、宅地造成のためか、ゴルフ場から先の尾根にも道が無い、
止む無く、公園の左を迂回し右手下に見える正応寺に向かう事とした。
この寺の前の道は馬洗川の支流に沿った道で、その起点は「鎌倉古道本道」の港南図書館の所で
右に入る道である。
港南区図書館まで歩き、戻ってくる事とした。
港南図書館前と抜けると頭上を横々道路が通る。
道はゆるやかな上り坂で、正面に大きな木が有り、大きく右にカーブするがそこはY字路となって
いた。
こんな木のそばには庚申が良くあると思いつつ近づくと、案の定、Y字路のチョイ左手に堅牢地神
(明治13年)、庚申(宝永元年(1704))が有った。(下ってきた時には見逃がしていた)
Y字路の右手には地蔵と、五輪塔の残骸らしき物が見られ、江戸時代には人の往来がそれなりに有った道で
あったという事をうかい知る事が出来た。
そこから120-30mで先ほど公園から迂回してきた道とぶつかる...。(ちなみにこの道は
吉原に向かう道だそうで、明治30年代に造られたといわれている。)
来た道を直進すると右手に相模風土記稿にも記載されている、嘉暦4年(1326)の板碑がある、正応寺山門
が見える。
山門をくぐると正面右手に六地蔵がある。本堂は石段を上った所にあり、本道の左手の小さな
祠に板碑はあった。
硬そうな石にはっきりと仏像が描かれていた。
他に境内に石仏があり右から寛永12(1626)年、寛永11年(1635)の銘があった。
落ち着いた静かなお寺であった。
道を隔てた反対側には織茂邸があり、立派な長屋門があった。
ここは名主屋敷であったらしい。
さらに歩いていくと、馬洗川の支流に架かる橋を渡る、右手に山が迫り古道の雰囲気が感じられる。
川が左手に迫り、しばらく川に沿って道が続く、まもなく横々道路の下をくぐる、正面、上に清水橋
と戸塚を結ぶ道路が見える、この道は完全な沢沿の道である。
さらに歩いて行くと右手の小高い所に駐車場が見え、その脇に人のみが通れる細い道が上に続いているのが
見えた。
その道の入り口に庚申と堅牢地神塔が見えた、油断すると見逃すような場所であり、ラッキーであった。
近づいてよく見るとその庚申は道標を兼ねたもので「左ぐみゃうじみち」「右かまくらみち」天明7年(1788)の銘がある。
やはりこの道も「弘明寺道」「鎌倉古道」であったのだ。(感激!!)
その庚申から延びる狭い坂道はいかにも古道という雰囲気をかもし出していた。
坂を上りきると右手にテニス場があり、正面には神明社があった。
神明社の裏の道は陸橋で清水橋と戸塚を結ぶ道路をまたぎ、野庭団地の高台へと繋がっていた。
自分はその道は通らず、左手の下り坂を下り、清水橋と戸塚を結ぶ道路を越え、遊水池の左側の
道を通り野庭団地に入った。
野庭団地に入り、野庭中央公園の左手の道を歩く、野庭中前の交差点までは現代の掘割の道...
谷道(ゆるい上り坂)が続く。
言い伝えによるとこの辺に関城が有ったとの事、地図でその地形を見ても、山城の形状を成しており
納得のいく感じてある。
中学校前を過ぎ、わんぱく公園のチョイ先がこの付近の最上部のようである。
わんぱく公園から先は道がゆるやかに左にカーブし、下り坂となる。
左手にゴルフの練習場が見える、旧道は現在の道のもっと左側を通っていたと思われるので、1本中に
入ってみた、眼下に日野の街並みが広がった、かなりの高低差があった。
元の道に戻り、そのすぐ先に迎陽トンネルの上を通る七里掘(古道)の入り口があった。

野庭公園より正応寺に抜けここまで来た道は、残念ながら尾根道ではなく、また七里掘が鎌倉時代の道
とすると(自分はそう思っている)同時期に有っただろう軍事拠点である関城のすぐ脇を主要幹線が
通る事は、常識的に考えらないことからもこれらの道は七里掘では無いと思う。
この道は、神明社から先は野庭中央公園の西側を通り、野庭高校の古道に繋がる道で、鎌倉時代から
ズッーと後の道と、想像する。
鎌倉時代からの七里掘は地形図から野庭公園から尾根づたいに野庭東小の脇を通り、野庭中へと抜け、
迎陽トンネルの上の古道だったのでは無いだろうか?
迎陽トンネルの上を通る細い道を進むと、パッと畑が広がり、一瞬、タイムスリップしたような感覚に襲われました。
そうです、一昔前のような畑が広がっていました....よーく見るとそれは、目線に遠くの山が入り
畑が延々と続いているような錯覚によるものでした。
畑の先に野庭表町公園が有り、公園から南の道は急な下り坂、となっていました。
西側はまだ宅地造成されておらず、山そのものの面影を残していましたが、古道跡らしきものは
見つかりませんでした。
七里掘はこの辺から日野南小付近まで続いていたとの事から南西方面に坂を下って行きました。
環状3号線を越えると、若干の上り坂となり、日野南小の手間で再び下り坂になりました。
南西方向が小菅ヶ谷の宿谷なのですが、日野南小の南西は急斜面となり、進む事は出来ませんでした。
止む無く、道なりに急な坂を下っていくと、右手に鍛冶ヶ谷南公園が有り、その下の谷間に住宅があり、
その先はまた山があります、その山の向こうが宿谷のようです。
公園を過ぎ、更に急坂を下り、その山を越える道を探しましたが見つかりませんでした。
この山の向こうが宿谷で、春日神社、大哲寺があるのですが、越える道が有りません。
道なりに行くと、JR根岸線の高架の下をくぐります。
その手前にトンネルのある上り坂が有りますが、どう考えても古道が通っていた道ではありません。
地図上ではこの道を行くと大誓寺に行くのですが....。
道を間違えたようです...。
迂回して本郷台駅に抜け、長光寺側から道を探る事にしました。
本郷台駅から長光寺に向かう道の左側チョイ奥に茅葺の立派な長屋門の家が有ります。
このあたりの名主か何かの家ではないでしょうか?
長光寺前の「滝の分交差点」を右に入ると、すぐ右手に皇紀2600年(昭和15年)の道路整備の石碑があります。
そこから道は上り坂となり、右にカーブし、曲がりきったあたりから下り坂となり、宮の下の交差点となります。
その交差点を左折すると正面の高台に小山台中学が見えます。
直進すると左手に平安時代創建といわれる春日神社があり、入り口の左手に2つの庚申がありました。
(左から正徳3年(1714)、万延元年(1860)の銘があった。)
上に上がるが歴史を感じるきわだったものは見られなかった、本殿の左手に不動明王の祠がいく
つかあった。
下の道に戻り大誓寺に向かう、本堂以外は天保9年(1838)のものだそうで、親鸞がこの地を訪れた
時、小菅ヶ谷の「やぐら」にこもり七体の太子像を作ったといわれ、「鎌倉七太子」と呼ばれた
太子像がある。
ちなみに、この像はここ大誓寺、長光寺、上郷の光明寺、下倉田の永勝寺、鎌倉の成福寺、三浦の最宝寺の
ものと言われているそうだが、あと1体は何処に....
寺を出て先に進むも、急斜面に突き当たり進む事は出来なかった。(右手の山の麓にはやぐら跡らしき
ものが見えた...)
来た道を宮の下交差点まで戻り、右折し、正面の高台に見える、小山台中学方面に向かう....。
まもなく歩道の左側に馬頭観音があり、慶応4年の銘があった。
さらに行くと、右手に小菅ヶ谷幼稚園が見え、その前の交差点の左手に延命地蔵がある。
正保4年の銘があり、県下2番目に古い地蔵だそうで、前の山のやぐらに有ったものをここに移したとの事である。
確かに、左手は山がせまり、麓には「やぐら」の跡らしいものが見えた。
そこから道は上り坂となり、環状3号線と交差する。
環状3号を右折し、ゆるい上り坂を行くと、500〜600mで日野南小入口交差点に達する。
歩きやすさを重視するなら、このルート、(日野南小入り口交差点の北側から同、3号線の小山台小、
中学校入口交差点を経て、南西に小菅ヶ谷幼稚園に抜ける)が鎌倉古道、七里堀の道のような気がしますが、
残念ながら、道標、庚申等、根拠となるものは見つかりません。
後日、この付近の昭和20年代の地形図が見つかり、よく見ると当時の道が1つ有りました。
この道は、日野南小の西の斜面をつづら折れで下り、小菅ヶ谷に向かう道で、現在の小菅ヶ谷幼稚園交差点
の分岐点に達する道です。
しかしながら、鎌倉道の特徴である「なるべく平坦で最短距離を結び、高低差の少ない坂道を選んで
造られている」という点を考えると、昭和の道は鎌倉古道としては疑問が残ります。
また、同様に「弘明寺道」で想定した追上道標からゴルフ練習場の脇を通り北上する古道に関しても、
ちょっと、急坂すぎるのでは....と、大正10年、昭和20年代の2つの地形図における当時の道路から
下の青い点で結んだ道が本当の古道では無いか....?(と思い)
ここで訂正したいと思います。
小菅ヶ谷から馬洗川沿の鎌倉古道
七里堀を探り歩いた時に1つの庚申(道標)を見付けました。
それにより、もう1つの鎌倉道が浮き彫りとなりました。
小菅ヶ谷幼稚園の交差点から北上した古道は環状3号線を渡り小山台小より、左折し、左側の山裾に
沿って北東に延びる道となります。(右手にも山があり、山と山の間に広がる畑の中の道)
この道を進むと、舞岡公園から馬洗川沿いの古道の庚申(六人会の方にお教え頂いた...)の所に
合流します。
また、小山台小の南西角の急坂を下って行くと、「弘明寺道」で触れた、木曽の石仏に行き着きます。
さて、もう1つの道は小山台小、小山台中の東端を真直ぐ上る坂道です。
途中、階段となり上りきり、振り返ると小菅ヶ谷が見渡せます。
その先は細い山道(跡...)が続き下り坂となります。
右手に野庭苑があり、さらに下っていくと右、後方に行くY字路があります。
この道も右手の林に沿った道で古道の面影を残していますが、100m程で、宅地造成で消え去っています。
Y字路の右手は「やと」で帰って調べると、馬洗川の源の地でした。
道なりに坂を下っていくと、今度は車の通れるY字路があります。
その右手の木に囲まれたような一角に灯篭と堅牢地神(明治13)、庚申が有りました。
庚申の土台の右面に享和元年(1801)の銘があり、右面に「左ぐミやうし道」左面に「右かまくら道」と刻まれていた。
この道は迎陽トンネルを抜けた道と合流し、浄念寺へ向かう、浄念寺には力石が有った。
この石は関城跡からここみ移されたものとの事であった。
山と山の間の谷道を進み野庭神社を通りるとようやく視界がひらけ、野庭高校手前のY字路(
堅牢地神、庚申のあるところ)で鎌倉古道に合流する。
七里掘を探りつつ歩いた結果、さらに2つの古道(江戸時代の道)を見付けました。
いずれも川沿い、谷道で、尾根道であったという、七里掘を探り当てる事は出来ず、想像されるコース
のみを探ったという結果になってしまったが、七里堀は古代からの道で起伏が多く、次第に馬洗川沿い
の道が主要道となり、完全に廃道となったのではないだろうか?
また、自分が古道の根拠にしている、あちこちに見られる庚申、道標は全て江戸時代のものであり、
それ以前のものは全く見られません。
文化的にも、また経済的にもそれ以前の時代は、そんな余裕のある時代では無かったでしょうし、
石造りの道標は存在していないでは無いだろうか?
また、仮にあったとしても、風化したりして、消えてしまったでしょう....。
江戸時代の「坂東観音信仰」、そして「庚申信仰」により、近郷近在の人々が弘明寺詣でのために利用した
道に、その供養塔、道標が立てられただと思われます。
それらの道は、決して主要幹線道では無く、生活に密着した、さまざまな道がある事を実感しました。
鎌倉道、即ち、鎌倉への道は時代ともに変移し、多くの古道が存在し特定は出来ないのです...ネ!
次回は別の鎌倉への道(横浜の)を歩いて見ようと思います。
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