関宿
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東海道五十三次[三重県 関宿]
関宿は古代、日本三関の一つ「鈴鹿関」が置かれた所である。
そんな古くからの歴史に登場する当地は、江戸と京を結ぶ基幹街道、東海道の47番目の宿の一つだけではなく
、ここから伊勢別街道、大和街道が分岐する拠点の宿でもありました。
関宿を通る大和街道は壬申の乱の舞台の1つでもあり、また本能寺の変の際、徳川家康
が堺から伊賀、関を経由し逃れた舞台でもあります。
また伊勢別街道は「お伊勢参り」が盛んに行われた江戸期の西からの入り口の1つとして大変賑わいました。
【関宿の規模】
本陣:2 脇本陣:2 旅籠:42 総家数:623軒 宿内人別 1,942人(男:1,008 女:934)
【主要産物】:火縄
【古代の日本三関】
鈴鹿関、不破関(関が原町)、愛発関(あらちのせき:越前 愛発山)
ちなみに 白河(福島)、勿来(茨城)、念珠関(山形 鼠ヶ関)は奥羽三関
【壬申の乱】
当事大津に遷都していた天智天皇は弟の大海人皇子を皇太子に任命していたが、天智天皇の病に
より、大海人大路は天皇の息子、大友皇子を相続させる動き察知し、大友皇子を皇太子に推挙し、
自分は奈良、吉野に下がった。
672年天智天皇が崩御すると皇太子、大友皇子が天皇に即位、弘文天皇となった。
その年の5月、弘文天皇の不穏な動に身の危険を察知した大海人皇子は6/24吉野から伊賀を経て
鈴鹿の関(三重県関町)を経由、美濃に逃れた。
6/27不破の関に到着した大海人の皇子はここで挙兵、弘文天皇に反旗を翻す。
結果、弘文天皇は破れ、673年大海人皇子は天武天皇に即位した。
【伊勢別街道】
山田道、いせみち、伊勢参道ともいわれ、 関町〜楠原〜椋本〜高野尾〜窪田〜一身田〜江戸橋
までの5里半(21km)の道、関西方面からのお伊勢参の道である。
平安時代は椋本から安濃川沿いに南下殿付近に至る道であった。
【大和街道】
関から加太峠を越え、伊賀上野、奈良へ抜ける道
三重県 関宿 もののたとえの「関の山」で有名な関、東海道53次のさまざまなHPでもタイムスリップ
したような所....との記述がある所でいつかは行って見たいと思っていた所ですが、ついに念願が叶い
いって来ました。
当初は泊まりでと考えていましたが、如何しても日程が付かず結局日帰りしてしまいました。
大磯から東名〜東名阪を経由、5Hで関ICに到着、不覚にも途中のPAで持参のデジタルカメラを紛失
....upする写真が少なく....ご勘弁!
西名阪道の終点の関ICを降り、国道1号線を右折すると間も無く、斜め右に入る狭い上り坂が見える。
長年の直感?というやつでここが旧道と車を乗り入れる。
道は緩いS字カーブを描き、緩い坂道を登ると、途中に「関の小万のもたれ松」があった。
道が狭く、路上駐車する訳にも行かず、ノロノロと車を走らせると目の前に古い町並みが現れた。
感心しながらも車を止めるところが見つからずに結局、地蔵までいってしまい、そこから左折し
「道の駅」に車を置き歩く事とした。
いつもの事ながらあまり下調べもしないできてしまったのがあだ?....
時間も1時を過ぎ、まづは腹ごしらえ...と出掛ける前にチラリと見たガイドブックに載っていた、
そばが美味しいという「会津屋」へ行くこととしたのだが、詳しい場所は調べていなかった....。
「道の駅」にいけば関宿のパンフレットが有ると思っていたのだが、それらしい物も無く、ガッカリ
さらに、町並みの途中にパンフレットか看板でもあると歩き出したがそれらしき物も途中に無く
、休憩所にもパンフレットは見つからなかった....。
半分あきらめかけ、食事が出来れば何処でも...と思い始めた頃、目的の「会津屋」の看板が目に入った。
道の駅からは、いい加減の距離が有があった。(何と地蔵院の前であった)
ようやくたどり着いた「会津屋」では、街道そば&おこわのセット(山菜御前 800円)を食べた。
町を歩いている観光客は少なかったのだが、店は混んでいて、白玉あんみつは売り切れであった...。
山菜御前のそばは量も多く、関西風のダシで、おこわも美味しくいただきました。
関東の観光地とは異なり、安くて、美味い関西文化を久々に感じました。
腹を満たし、店を出て、まづは宿の西端からスタートしようと西の追分へと足を向ける....。
宿の西端で国道1号線と合流するが、そこまでは800m位の距離がある。
国道と合流する手前は、ちょっと急な下り坂となるが、その左手に休憩所があり、坂を下ると
西の追分となる。
追分には「南無妙法蓮華経」「ひだり八いかやまとみち」「元禄14年 谷口 長右衛門」と刻まれた
大きな供養塔(道標)がある。(左は伊賀、大和道の意だろう...)
その追分を直進すると鈴鹿の峠越え、左折すると加太、伊賀、奈良へ通ずる大和街道である....
そこからユーターンし、来た道を戻り、一路東の追分に向かう。
坂を上りしばらく行くと左手に観音院あり、そこから先(東に)新所の古い街並みが続く。
新所の古い建物には関の特産品である火縄を扱った火縄屋や、味噌屋の建物も有った。
途中、瓦屋根の葺き替えで埃が舞い、歩ける状態では無く、裏道に回ってみたのだが...味噌、醤油屋は、裏
の敷地も広かった。
また、裏からの街並みは、外面とは異なり、くずれかけた建物もあり、また整備されておらず、
なおいっそうの時代を感じられる所もあった。
関の街並みは電柱や、電線のみならず舗装路にも心使いが感じられた、道路の舗装は通常の
アスファルトでは無く、土を感じさせる色調の材料が使われていることに感心.....。
そんな、心使いの古い町並みを感激しながら歩いているうちに地蔵院まで来ていた。
(観音院から地蔵院までは緩い下り坂である)
この地蔵院は天然痘が流行した天平13年(741)行基によって開かれたと伝えられており、
本尊の地蔵菩薩は日本最古と云われている....本堂は元禄13年(1700)5代将軍、徳川綱吉
によって建立されたそうで、境内にある鐘楼は寛文11年(1671)に建てられたそうだ。
本堂の脇の愛染堂とともに3つが国の重要文化財に指定されており、本堂の前は街道に面し
広い空間が取られ、オープンで、人が集まりやすい雰囲気で、非常に賑わった事が容易に
想像される所でした。
【一休禅師の関地蔵開眼ばなし】
「関の地蔵に振り袖着せて、奈良の大仏婿(ムコ)にとる」の俗謡で名高い地蔵堂であるが、
途中火災などに遭い、そのたびごとに再興されたという。
昔、地蔵の開眼供養を、たまたまそこに通りあわせた一休禅師(1394〜1481)に頼んだ
ところ、一休禅師は地蔵にむかって「釈迦はすぎ、弥勒(みろく)はいまだ出でぬ間の、かかる
うき世に目あかしの地蔵」と詠(よ)み、前をまくって立小便をして立ち去った。
人々は怒って別の僧に頼んで開眼供養をやりなおしたが、その夜、世話人に高熱が出、夢枕に
地蔵が立ち、せっかく名僧の供養で開眼したのにと、供養のやりなおしを命じた。
あわてて桑名の宿にいた一休禅師に助けを求めると禅師は古びた下帯をはずして地蔵の首に
かけるよう手渡した。
人々は半信半疑で言われた通りにすると、世話人の高熱はたちまち下がったという。
関の地蔵が首に麻の布切れをまいているのはこの故事によるそうである。
地蔵院の道を隔てた反対側には昼食を食べた、「会津屋」があり、その右隣は「洋館屋」がある。
会津屋は昔は旅籠で元は「山田屋」といい、あだ討ちで有名な小万の育った家であるという。
【関の小万】
仇を追い、親子で鈴鹿を越えた小万の母は関の旅籠「山田屋」で病に倒れ亡くなった、
残された小万は「山田屋」の養女として育てられるも、亡き母の意思を継ぎ、父の敵を
討つため、亀山藩の道場で武芸を磨き、ついに天明3年(1783)亀山城、大手前付近で
無事本懐を遂げ、仇討ち烈女として名を馳せた。
その後も、山田屋に留まっていたが、享和3年(1803)36才の若さで亡くなった。
「会津屋」の裏手を入った所に、福蔵寺が有り、ここに小万の墓が有った。
またこの寺は、織田信長の三男、信孝の菩提寺でもあるという、歴史上の偉大な人物の影を
見たようで、歴史がやけに身近に感じられた....。
そして、ここの裏門が「玉屋」の向かいに有った、萩屋脇本陣の門が移築されたもの
である。(本陣や脇本陣の門が寺に移築されているのは良くあるのですネ!)
門の蛍光灯が興ざめ....
街道に戻る。地蔵院のすぐ東の右手に休憩所「いっぷく亭」があった。
その向かいに昔ながらの趣の鍛冶屋があり、今も商売をしているようであった。
さらに東に行くと、郵便局があり、そこには復元された高札場があった。
神奈川宿の復元された高札場と同じくらいの大きさであった。
平成16年3月に復元されたので新しすぎて若干の違和感が有ったが2年もすれば街並みに
マッチするのでしょう。
説明板によると、高札場の後ろの郵便局の建物の敷地には「御茶屋御殿」と呼ばれた、関宿に
本陣が置かれるまで、本陣の役割をした建物が合ったそうで、本陣が置かれると、そこは
亀山藩の番所が置かれ、高札場の管理も行っていたとの事である。
郵便局の右隣は、町の歴史資料館となっている旅籠「玉屋」である。
「関で泊まるなら鶴やか玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」で有名な旅籠を整備した資料館である。
入場料も大人300円と安く、行政の有り方に感心させられた.....。
慶応元年(1865)に建てられたという母屋に入ると、(入り口は建物の中央にあり)土間となっている。
入った左手は通り(街道)に面した広い板敷間となっており、浮世絵のままで、客の荷物や、駕籠が置か
れたらしい。
その奥に、帳場らしい板の間があり、番頭さんらしき人形が座っていた。
帳場の奥に2つの部屋があり、その向こうに離れが見えた。
離れは廊下で繋がっており、敷居が1段高くなっており立派な部屋であった。
一目で身分の高い侍や、公家連中が宿泊した部屋であると想像された。
土間を挟んで右手に現在は受付があるが、主人の居住区であったようである。
土間の奥には吹き抜けの広々とした台所があり、かまどがあった。
目をつむると、夕方の薄暗い台所で、女中たちがかまどでご飯を炊き、煮物をしたり、
あわただしくお膳を運ぶ、その脇を風呂上りの旅人が手ぬぐいを頭にのせ通る......
そんな状況が昨日の事のように目に浮かぶのは自分だけだろうか?
二階に上がると7つの部屋があり、全てが客間と思われるが....それぞれに、せんべい布団
が引かれたり、お膳が置かれたり、当事の状況が想像されるディスプレイが素晴らしかった。
布団の敷き方を見ると、当事は相部屋が多かったのだろうか?
また、玉屋で通常何人の人を泊めて居たのだろうか?料金は?そんな疑問が残った・・・。
十分時間を掛けて見たい所であったが、何せ日帰りしなければならないので、後ろ髪を引かれ
ながらも玉屋を後にした。
向かいにはお菓子「関の戸」で有名な深川屋陸奥大椽(ふかがわや むつだいじょう)が有った。
ここも古くからの建物で、天明2年(1783)のものだとか.... 庵看板(いおりかんばん)で有名。
店の中を覗いてみると歴史を感じさせる調度類が置かれ、観光用?かと思ったら、若奥さんが出てきて
銘菓「関の戸」の説明をしてくれた。
小豆の漉し餡を牛皮で包み、和三盆(純国産の砂糖)をまぶしたお菓子で試食をして、2つ購入した。
お茶請けにいい和菓子と言う感じであった。
女房に言わせると、和三盆を使用したお菓子は京都に多いとか....。
店の名前の由来が天保2年に京都御所より従2位服部陸奥大椽のたまわったことによるのだそうだ。
宿内を東に進むと、両替商橋爪家、伊藤本陣跡が有る、残念ながら本陣は店の部分だけが残っているとの事、
ちなみに浮世絵は川北本陣を描いている。
伊藤本陣跡の先には宿場を上から望める、百六里庭、眺関亭がある。
ここからの景色はまた格別で、映画のセットを見ているような錯覚に落ちいった程である。
また、鈴鹿の山並みが綺麗に望める。
百六里庭の斜め向かいに山車庫があるが、そこが川北本陣のあった所である。
そして、その隣に旅籠「鶴屋」がある。2階の黄色い壁が特徴...?(千鳥破風が格式高い)
鶴屋の斜め向かいに、「まちなみ資料館」があり、関の代表的な町屋の構造を見学できる。
間口が狭く、奥行きの長い町屋の構造が良く解った。2階は天井が低く圧迫感があった。
まちなみ資料館の先の大きな交差点の右側に古い建物風な大きな居酒屋があり、その交差点を左折
すると延命寺がある。
ここの山門は川北本陣の門を移築したものである。
さらにその先には御馳走場がある、ここで宿に出入りする大名行列を宿役人が出迎え、見送りしたという。
ここから先道は緩やかな下り坂となる。
そして、馬つなぎ金具、ばったり(店棚)のある町屋があったりする。
この先から東の追分までには古い建物がぽつりぽつり点在するようになるが、より一層生活観の有る古い町並み
を感じる事が出来る。(木崎の町並)
町並みが切れた所の右手に鳥居があり、一段高いところに常夜灯が見える。
ここが東の追分で、直進すると江戸への東海道、右折して急坂を下ると伊勢別街道である。
鳥居は伊勢神宮のもので、ここには道標が有ることになっているが残念ながら見つからなかった。
また、ここには一里塚も有ったのだが明治初年に取り壊されたという。
浮世絵にも常夜灯の手前に一里塚が描かれている。
東の追分で時間も16時となり、そろそろ帰宅しなくてはならない時間となってしまった。
帰りに女房と約束の志ら玉屋により、銘菓白玉&抹茶のセットを食べた。
結構、歩きつかれた体に、冷たい抹茶と、甘いお菓子が美味しかった。
みせのオバチャンが、町並みは整備されてもさっぱり客が来ない.....年金生活だからやっていける
と話していたが、木曽の宿場みたいに大々的に観光化された所とは違い大変なのだろう思った。
逆を言えば、そんな観光化されていない所が我々には良いのだが....。
そんな「関宿」行ってみませんか?
東海道五十三次[三重県 亀山 野村の一里塚]
関宿の帰り、亀山宿の国の史跡であり、三重県で唯一残っている、野村の一里塚に寄った。
関の一里塚の次の一里塚である。
塚には樹齢400年の椋(ムク)が植えられ、幹まわり5m、高さ20mの塚があった。
これは北の塚で、残念ながら南の塚は大正3年に取り払われたのだそうだ。
樹齢400年....東海道が整備された時からの現存する一里塚である。
塚には一面に彼岸花が咲いていた。
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