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番外  自然が一杯の小夜の中山を歩きませんか?
横浜からの交通機関
JR東海道線 料金¥3,260(片道)
 横浜 am5:47 この車両は特急の車両を使用していた(2人掛け、リクライニング)...お得
静岡 am8:26
静岡 am8:28
金谷 am9:00

東海道五十三次[金谷宿] 

2001/09/08 歩破
金谷宿はその東に「越すに越されぬ大井川...」東に箱根に次ぐ難所と言われた 峠、小夜の中山を控え栄えた宿場です。 東海道分間延絵図を見ても、街道筋に家がびっしり立ち並び、大きな宿で有るのが解ります。
【金谷宿の規模】
本陣:3 脇本陣1 旅籠:51 総家数:1400軒
宿内人別 4,271人(天保14年)









金谷 東町より島田宿方向を.. 金谷 ここから金谷宿.. 金谷 東橋 金谷宿の入り口... 金谷駅前から島田総合病院行きのバスに乗り、東町で降りるとちょうど大井川の橋の手前となる。
大井川の向こうには、島田の川会所のすぐそばにあった、製紙工場の赤白の煙突が見える。
そこから川に沿って150m程で旧東海道に出る。
川の堤を下る道には旧東海道の標識が有り、すぐに解ったありがたい。 当時は今みたいに堤は無かったのだろうが、堤を下るとすぐ東橋が見える、この橋が 分間延絵図の八軒屋橋で、橋の左手が公園になっており、近年創られた東海道 の道標がある。
金谷宿には見附(みつけ)は無く、江戸方見附を東橋が兼ねていたようである。
旧加藤家 川越番屋跡? 昔の街道筋はこんな感じ? 島田の川越遺稿 橋を渡り間もなく左手に「旧加藤家」があった。
この建物は江戸時代の川越制度を伝える建築物で、川越人足が待機していた番宿らしい、最近 発見され、調査の結果、江戸時代の建物と認定されたらしく静岡県での保存が決定したらしいが、 説明書らしいものは何も無く、玄関で声を掛けたが、答えも無く、残念ながら見学も出来なかった。
玄関の右手に蓮台(川渡しに使用した?)らしい物があったが... (分間延絵図を見るとこのあたりに川会所、川高札が有ったところからもがてんがいく)
きちんと整備されたらまた訪問したい....。
宅円庵 日本左衛門の墓 宅円庵 六地蔵 大井川鉄道 SL... 「旧加藤家」の先の道を左に入りしばらく行くと歌舞伎で有名な大盗賊「日本左衛門」の墓 のある「宅円庵」がある。
庵には古そうな六地蔵もあり、また裏手にはSLで有名な大井川鉄道の操車場が見えた。
街道に戻り大井川鉄道の踏み切りの右手に秋葉社の祠があった。

秋葉社:浜松の火防信仰の霊山、秋葉山にある秋葉神社に由来し、火之迦具土大神 (ひのかぐつちのおおかみ)を祭っている。
防火の神様

秋葉社の祠 大代橋 近年になり「旧加藤家」が発見された?事を頭に街道沿いの街並みを見ると、あちら こちらに古そうに思える造りの家が目に付いたが気のせいだろうか...。
まだまだ「旧加藤家」のような発見が有ったりして....そんな思いをめぐらし、歩いて いるうちに大代橋まで来た。
大代橋を渡ると街並みが変わり、古そうな造りの家は見えなくなった。
更に道なりに歩き、国道470号と合流したあたりからが、現、金谷の繁華街?と なる(道も広くなり...)、きれいな街並みだが、人通りも殆ど無かった。
幹線から外れた町はこんなものだろうか?
道の右側にちょっと大きな本屋が見え(佐塚書店)、そこが佐塚屋本陣の跡地であった。
そして、書店のすぐのバス停の所に柏屋本陣の跡地の看板がある。
残念ながら、往時を偲ばせる物は全く見出せなかった。
多くの宿がそうであったように、ここ金谷宿も度々大火に見舞われ江戸期の名残は無いようです。
道はこの辺から金谷駅に向かって緩い上り坂となっている。
佐塚屋本陣跡 柏屋本陣跡 柏屋本陣跡のチョイ先に山田屋本陣が有ったのだが、やはり、その遺稿もない。 途中、明日から祭でも始まるのであろう、その準備をしている地元の人が見られた。




kanaya02.gif(64904 byte)

道は直進、金谷駅、左折しJRの線路の下をくぐる交差点となる。
この交差点に一里塚が有り、右手に高札が有ったのだ。
金谷一里塚跡 ここの1里塚は江戸より五三里、嶋田へ一里、日坂へ一里二四町で南側には榎と松、北側には 松と桜が植えられていたという。
南側の塚の跡に一里塚の説明札が立っており、JRの隋道を抜けるとすぐ右手に長光寺への参道が 見える。
長光寺は金谷宿唯一の日蓮宗の寺で芭蕉句碑がある。

芭蕉が貞享元(1684)年8月から翌2年4月にかけて、門人の千里(ちり)を伴い東海道を江戸から 西へと旅した折に、大井川のあたりで詠んだといわれる句で、『野ざらし紀行』には

大井川越ゆる日は、終日(ひもねす)雨降ければ、秋の日の雨江戸に指折らん大井川  ちり(千里)

馬上吟 道のべの木槿(むくげ)は馬にくわれけり


一つ驚いたのは、日蓮宗の寺が唯一との事、神奈川の街道筋には日蓮宗の寺の多いこと....
やはり、鎌倉時代の日蓮の奇跡とそれによる信者の多さが関係するのか?
長光寺の本堂は新築中で境内も雑然としていた。
参道の右手に元禄12年の題目石があった。


長光寺の題目石 金谷宿西入口土橋 不動橋 庚申? 金谷石畳入口

長光寺の参道から間もなく金谷宿の西の入口土橋、現、不動橋がある。
橋の左手奥には分間延絵図にも描かれている不動堂が今もある。
橋を渡ったあたりから徐々に急坂となる。 急坂の左手に秋葉社、庚申?が有った。
分間延絵図の右手に見られる秋葉社は見られなかった。
国道473号線を渡り更にのぼって行くと金谷石畳の入り口にたどり着く。
石畳茶屋の囲炉裏 石畳茶屋の縁側 金谷石畳 入り口のすぐ右手に金谷石畳茶屋がある。 中は資料館となっておりまた、食事も出来るようになっており、囲炉裏がある。
金谷の石畳を歩いて、一休み、縁側からの景色はなかなかのものですヨ!
ちなみに江戸時代の石畳は土橋から牧の原までの幅2mで850mあったとの事で、現在の石畳は 平成3年に、幅3mで、側溝を設け(昔は無い)、430m復元されたものである。
石畳の途中には鶏頭塚、日本左衛エ門が夜盗の姿の着替えたといわれる庚申堂(昔はもっと 大きい建物だったのか?)、すべらず地蔵、五ツ子楠がある。
東海道分間延絵図を見ると、鶏頭塚、庚申堂は描かれていない、当然茶屋も無いことから 何処からの物を移築した物かも知れない、茶屋は石畳を再現するときに作ったものであろう。
五ツ子楠 金谷石畳 石畳の上、右は諏訪の原城跡... 金谷の石畳....たかだか430mとはいえ、かなりの急坂でまた、大きな丸い石は決して歩き易くはない。
(ここの石畳は箱根の石畳とは異なり丸みをおびた大きな石を使っている。)
普段の運動不足もたたり、息も絶え絶えで坂を上りきった。
坂の上には芭蕉句碑がある。

馬に寝て 残夢月とおし茶のけぶり

しばし平らな道を歩く...右手に諏訪原城跡の標識が見えるが、今日の遅くても4時には掛川駅に 到着しなくてはならないので寄り道は出来ない。
標識のすぐ先の十字路の先に「菊川坂」の看板が見えた。



菊川石畳 菊川石畳...赤の破線を歩く 山に「茶」の文字が見える...

そのすぐ先に、菊川坂の石畳が見える....坂の下に集落が見え、おそらくそこが「間の宿菊川」であろうと思われた。
右手の山の斜面に「茶」の字が描かれた山有った。さすがお茶の静岡....
菊川坂は平成12年に発掘され、江戸時代の石畳と確認された遺稿で、当時は長さ三百八十間( 690m)あったとの事、入り口からしばらくは再現された石畳のようで、石畳の説明板が途中 有るが、その先からが江戸時代の石畳のようである。(現在は161m、最大幅4.3mが残っている)
坂を下ると間の宿、菊川の里... 菊川石畳の入り口 菊川の里の入り口 江戸期の石畳からは、かなりの急坂で、たしかに雨の日はぬかるんで石畳を敷かないと上る事 は出来なかったであろうと思われる。

箱根でも思ったが、本当に大名行列がここを通ったのか?考えると信じがたい道である。

古そうな道標 高麗橋 急坂を下りて行くと、間も無く、菊川宿側の坂の入り口の表示と車止めの杭がある。
そこからは石畳の左手を通る、舗装された車道と合流し、真直ぐ菊川に架かる高麗橋へと下る。
高麗橋は東海道分間延絵図では「菊川土橋」と記されている橋で、その橋の手前の三差路の 左手に大きな石の道標がある。
道標には「右二......」と刻まれている。
石の材質や、風化の状態から推測するに江戸期の道標で、遠江三十三霊場の二十五番札所、 歩き観音で有名な「松島の岩松寺」への道を示す道標であると思われる。
よって、刻まれている字は恐らく「右二十五ばん道」では?
江戸時代の観音信仰は全国的な流行だったのですネ!あくまでも著者の想像であるが....
道標を後に、分間延絵図に「此川筋二里程上大代山ヨリ流レ出、字菊川五里程下ニテ国安川江落合 夫ヨリ来福巴地内ニテ海江落ル」と記されている菊川を渡ると、間の宿菊川の東の入口である。
ちなみに菊川土橋の大きさは「東海道宿村大概帳」に「長十一間、幅二間半、橋枕三本立て六組の 土橋」とある。
分間延絵図を見ると間の宿菊川に入ってすぐの右手に高札があり、その先、右手に「立場」が描かれている。
絵図には建物が街道筋に立ち並んでいることからも茶屋が建並んでいたのでしょう...。( 菊川の里の戸数 76戸とある 掛川誌稿より)

間の宿菊川の名物は「ゑ入 一目玉鉾」に此処に矢の根鍛冶の名人有、また切飴の名物有と あるように、矢の根鍛冶と飴の餅で、特に飴の餅は東海道中膝栗毛の、弥次さん喜多さんもこの飴 の餅を食べています。(酒飲みなのでもてあましたと書かれている。)
菊川橋の左側のたもとに、名物菊川飴の店「橋本屋」や「いずみ屋」などがあったそうである。


東海道宿村大概帳:幕府の道中奉行が天保から安政年間に調査編纂した五街道と脇街道の 宿駅の記録で、各宿駅の人口、戸数、本陣、旅籠の数、高札の内容、道路の広さ、橋、寺社 、地域産業、特産品、街道筋の村落の状況等、広範囲に調査されたもの(53冊が見っかっている)

ゑ入 一目玉鉾(ひとめたまぼこ):は、井原西鶴による全国道中記で、元禄二年(1689年) に刊行されたものである。
四巻からなり、巻一は蝦夷から奥州街道をへて江戸まで、巻二、巻三は江戸から東海道をへて 大阪まで、巻四は大阪から瀬戸内海をへて長崎、壱岐、対馬までの道中を記述している。
各頁の下段に地名を記した鳥瞰図を配し、上段に城下町、城主、宿場、神社仏閣、名所旧跡、 故事・古歌等を記載している。

飴の餅: 江戸時代の東海道で、小夜の中山の名物として知られたお菓子で、搗き餅を 小さくちぎって団子に丸め、手のひらで押して平らにして程よく焼いたものを皿に五つ並べ、 やわらかい水飴を添えたものです。
この甘い菓子は、大井川、金谷坂と難所を越えてきた旅人たちには忘れ難い味となり、土産話に 伝えられて評判になりました。


菊川の里の街並みは、古い町並みを期待していたのですが、新しい大きな家が立ち並んでいました。
町を抜けると道は左に曲がりそこで大きな道を横切りますが、そこが四郡辻で、そこには青木坂の 木杭が立っています。
四郡橋は小さ過ぎて見落としたのか、気がつきませんでした。(渡ったような気もする...)
四郡の云われは榛原郡、城東郡、佐野郡、山名郡または山香郡との説や四郡橋が、菊川の里の中を 通ってきた東海道が、この川を渡るために直角に曲がって中山峠を上っていったから、横折れ橋が なまってヨコオリ橋になったという説があるとの事です。 (実際には榛原郡、城東郡、佐野郡の 三郡のみの境界があります)




青木坂入り口 青木坂..入り口から急坂が続く 郡境の石柱の先から上り坂となり急坂は右に大きくカーブします。
これが青木坂(箭置坂)で、意気も息も絶え絶えで坂を上りカーブを曲がりきると更なる 坂がズー先まで続くのが見えます。
坂の左右には茶畑が広がり、後ろを振り向くと谷を隔て先ほど下ってきた菊川坂が望めます。
道は車がようやく交差できるくらいの道幅で、当然の事ながら車は殆ど通りません。
昔は本当の山の中で昼なお暗い山道だったのでしょう。
道の途中には庚申などの遺稿は見当たりませんでした。
坂をほぼ上り詰めたところに茶亭跡の石柱が有りました。茶亭は慶長5年(1600)、関が原 の合戦に向かう徳川家康を山之内一豊が茶を立て接待した所だそうである。
そのすぐ左手に夜泣き石で有名になった久延寺の山門がありました。
茶畑の間の坂道を上る... 久延寺の前、に茶亭跡 立派な山門をくぐると境内にはニセの夜泣き石(元々は供養塔で門前にあった)があり、家康お手植 えの松(2代目)がある。
この寺は火災で焼け、今の建物は江戸後期か幕末に再建されたものらしい。(山門は弘化4年(1847) に再建)
その少し先の右手に峠の茶屋「扇屋」がある。子育て飴で知られた茶屋だが残念ながら閉まって いた。土日は営業と聞いていたのだが....
江戸期、久延寺は子育て観音の名で峠の名刹として知られ、寺の周辺には20数軒の茶店が 立ち並び大変賑わったそうであるが、幹線道からはずれ次第にさびれ、当時の面影は無く 唯一残った茶屋が「扇屋」である。
久延寺の山門 ニセの夜泣き石 峠の茶屋「扇屋」

佐夜鹿(小夜の中山)一里塚跡 金谷宿をスタートしてちょうど扇屋で昼となった。
小夜の中山公園で昼食をとる事とした。場所は菊川坂の上から見えた電話の中継塔の下でとても 見晴らしのいい所であったっが、あいにく風が強く早々と食事を済ませ歩くこととした。
公園の中にいかにも古そうな塚があった、経塚だそうで、寺が戦火で焼失したとき、焼けた経典 を埋めた所らしい。
街道に戻る....そこからは緩やかな下り坂となる。
下り初めて間も無く左手に「佐夜鹿(小夜の中山)一里塚跡」が有ります。
ここの一里塚はその距離から色々物議をかもしだしている塚で有名です。(距離が合わないため で、別ルートの説も有り江戸から56里だとか、52里とか?)
塚は無く跡のみです。右手の個人宅の裏盛り上がった木の根元が反対側の一里塚の跡とのHPも 有りましたが確かそんな感じもしました。
「東海道宿村大概帳」では街道の両側にあり松と榎が植えられていたようです。
道幅は3間あったと記載されています。
一里塚のすぐ先、右手には「東海道分間延絵図」では茶屋が載っているが今は茶畑が広がっているのみ。
また、絵図の神明社は小さな祠が今も残っていた。
そして絵図には無いが左手に鎧塚があった。道は緩やかな下りでのどかに茶畑の間を縫うように続いている。
途中、我々夫婦と同じ目的か?日坂宿方面から坂を上ってくる老夫婦に会い、挨拶を交わした....
道は田舎道そのもので曇り空ながら、風も当たらず歩きやすく、二人で金谷宿からのコースを選び良 かったと話し合った。
あの夫婦は金谷宿まで行くのだろう、きつい坂が控えている....。
まもなくすると、右手に小さな祠が見える、これが白山神社であった。
分間延絵図では左手に白山権現として記述されており、この手前の右手には高札の記述がある。
さらに緩やかな下り坂が続き、左手に馬頭観世音がある。これは蛇身鳥退治の藤原良政が京から下行 の際、愛馬をここに葬った所と云われている。
その先に涼み松広場が有った。
白山神社 馬頭観音

この辺に大きな松が有り、往時は峠を歩く旅人たちに木陰を提供していたそうで、ここで詠まれた 芭蕉の句「命なりわづかの笠の下涼み」にちなんで涼み松と呼ぶようになった。周辺の地名も「涼み松」 のと呼ばれているそうだ....今はその松の大木は無く若い木が植えられていた。
涼みの松の右手の茶畑の中に妊婦の墓が有ったらしいが、残念ながら通り過ごしてしまった。 涼み松 夜泣き石の坂 夜泣き石跡 緩やかな坂を下りきった所の右手に「夜泣き石の跡」がある。
ここを描いた浮世絵は坂がデフォルメされていることに驚かされる....。 夜泣き石跡を過ぎると、道は急に狭く、急な下り坂となる。沓掛坂である。
この坂は非常に急な坂で、下り坂であることに感謝、感謝であった。




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