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東海道五十三次[大磯宿] 

2001/09/08 歩破
大磯宿の始まりは、1620年に3本陣のひとつ、尾上本陣の祖先、市右衛門 が置いた宿で、続いて小島本陣、石井本陣ができ、宿場としての体裁がととのいました。 美しい松並木が、当時(江戸期)の面影をこれほどまでの規模で残すのは、大磯宿周辺 のみです。
【大磯宿の規模】
本陣:3 脇本陣6 旅籠:66 総家数:676軒
宿内人別 3,056人(男:1,517 女:1,498)
【江戸時代の名物】:鴫立庵、小余綾の磯
【産物】:砂利 大磯海岸の産 その種類 5色あるいは中栗、白班、黒小砂利等あり、 時々命ありて公に納む(相模国風土記稿)



高麗山を真近に望みながら花水橋を渡るとすぐ左手に善福寺がある。
境内の左手には巌窟があるが、これは奈良から平安時代にかけての横穴式古墳 跡とのことである。
この辺が江戸時代は高麗寺村であった。
鎌倉時代はこの村が栄えていたようである。
【相模国風土記】花水川:大佳郡平塚宿より郡中山下村に入、高麗寺、大磯二村の 地を流れて海に入る。水路17町許、是は郡中を流るる川丈なり、以下是に倣へ幅25間、堤 あり、高7尺、敷2間、馬踏6尺、此川は宝永6年、新に掘割し水路なり。
【相模国風土記】高麗寺村:民戸:43 東西8町余、南北7町余
波多野道:高麗寺村より北に入り(海道より北に分折)山下、高根、二村の境を通じ 萬田村を経、出縄村に入、西折して大佳郡下吉沢村に達す、行程32町半余、幅八九尺
大磯宿:東海道往還、海辺の諸村を歴て通ず、道程2里20町、郡中を通ずる道程なり 、下皆是に倣へ其地域は高麗寺、大磯、東小磯、西小磯、国府本郷、国府新宿、二ノ宮 山西、川匂等の村に係れり、道程3間より5間に至る。

:宿裏巽方に在、民方平塚宿浜境より南東小磯まで長さ29町半余、町裏に添て 浪除堤あり、高5尺、敷1丈6尺、馬踏6尺、荒海にて汐干塩等はなし、船数40を置、廻船3、 海士船12、生漁船4、地引船3、以上毎船に永銭500文をだす。
小船18是は125文宛を出せり、此沖四時漁業の利多く、地引網場3所あり、所獲の魚は 鯛、鯵、鯖、鰹、小鰯、鮫、鮑、あんこう等の類なり、此品江戸新場に附送ると云

高麗寺村 東海道分間延絵図 善福寺 善福寺境内の巌窟









善福寺を出てすぐ斜め向かいに萱葺きの旧家がある。
特に何の説明書きも無いので、普通の民家と思われるが、維持には大変だと思う。
何か云われでもある家なのであろうか?
【相模国風土記】大磯宿(寛文の小帳):東西29町半、南北12町、東、古花水川を 隔、大佳郡郡平塚宿及び本郡高麗寺村、西、西小磯村、南、海 北、萬田、高根 2村を境とす
戸数678 内本陣3 一は小名北本町、二は南本町にあり、旅籠屋85 此内大家の分を脇本陣 に充ると云、又此内、東小磯村に住する民数戸あり、往還の左右に連住す 此余海辺に漁者 200戸列住せり

萱ぶきの民家 高来神社 慶覚寺の道祖神 その先100m程で高来神社への入り口がある。
高来神社は朝鮮半島の高句麗が滅亡した際に、この辺に移り住んだ高句麗の王族が 668年に創建したと伝えられる高麗寺が明治の神仏分離令により高来神社と慶覚寺に 分割(高麗寺は廃寺)された経緯の神社と寺である。
慶覚寺には、境内に道祖神が祀られていた。
街道に戻り200m程行くと、信号があり、斜め右に入る道路がある。
ここが旧東海道であるが、その手前の国道の左手に小さな公園があり中に化粧(けわい) 坂の石碑が有った。
旧街道に入るとすぐ右手に水車の回る蕎麦屋があり、街道は緩やかな上り坂となる。
国道と合流する所の
	蕎麦屋 化粧坂の平塚側入口 化粧井戸 車も殆ど通らず、旧東海道のたたずまいを感じる。
150mほど行くと左手に黄色い壁の家があり、そこに化粧井戸が有った。
説明によると、鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂周辺にあったとのこと、即ち、高麗寺村が中心?
虎御前もこのあたりに住んでいたようで、この井戸で朝夕化粧をしていたというものであった。
鎌倉時代、この辺は遊女屋が並ぶ一大歓楽街であったらしい。
その先の左の地べたに丸いコンクリートのブロックが置いてあり、大磯一里塚と書かれていた。
近所の人が書いて置いた物で、残念ながら公の標識のような物は見つからなかった。
大磯一里塚付近 
        東海道分間延絵図 その一里塚跡の北側には【東海道分間延絵図】では猫塚、鞍掛塚なるものが記載されており 探し回ったが、残念ながら見つからなかった。
一里塚跡の反対の木陰に道祖神があった。
【相模国風土記】一里塚:宿の東、並木中にあり、方3間、高7尺、双こうなり、 北側には栴檀(せんだん)樹を植う、南側は古榎樹ありしが寛政9年枯稿せりと云、 西方、国府本郷村、東方、大佳郡郡馬入村の里ていに続けり

大磯一里塚跡はこの辺? 一里塚周辺 一里塚周辺









一里塚の位置に関しては【東海道分間延絵図】の位置関係や、位置の解っている、山西の一里塚から の距離(8km)を測って見ると、この場所より更に西となり、納得のいかない場所であるが…。
この辺にはその地形からか、いたるところに一里塚の跡と思わせるような石垣があったりして…… 確証は持てないが、個人の標識を信じておこう。
開道400年を記念して大磯町も他の町のように、旧東海道の案内板等を整備して欲しい物である。
一里塚の先、右手に大磯八景の石碑とそのすぐ先に広重の浮世絵、「大磯虎ヶ雨」の立て看板 が立っている。
化粧坂の石碑 化粧坂の平塚側 その先のちょうど坂の頂上部にあたる所で旧東海道はJR東海道線によって寸断されている。
恐らく人家が無ければここからは浮世絵のように海が見えるのだろう。(電車からは海が見える のだから…)
寸断された旧東海道は線路の下をくぐる隋道で繋がっており(徒歩か自転車のみが通れる) 車が通り抜け出来ないので旧道は静かなのだ.…、隋道を抜けると下り坂となり、立ち枯れの 松も有るが、松並木が出現する、旧街道のたたずまいがある。
残念ながら路上駐車が多く、その景観を壊されている…。
化粧坂 大磯側 この辺に江戸見附が
        あつた? 坂を下りきった所が国道1号線である。
【東海道分間延絵図】から見ると、国道とぶつかる少し手前に見附が有ったようである。
見附については平塚宿でも触れたが、浮世絵、虎ヶ雨に描かれているのがこの辺で 化粧坂を下ったところで宿の入り口である。
国道1号線と合流し70〜80m行くと三沢橋がある、ここが【東海道分間延絵図】の三沢石橋の 場所である。



この小川は小さいながらも結構流れが速い....。
橋を渡り、大磯駅入り口の横断歩道橋を過ぎると、左手に大磯郵便局がある、この辺からが北本町 となる……その先の細い路地を左に(南に下った)入った所に延台寺が有った。
日本三大仇討の1つ曽我兄弟の仇討で有名な兄と遊女虎御前の悲恋の地で 身代わりの虎御石が境内にあるとのことだが、立看板の字がかすれ、よくわからず、虎子石を特 定できなかった。
延台寺 延台寺の虎子石 延台寺の左手に秋葉神社があり、略縁起に
宝暦12年(1762年)1月19日大磯宿に大火があり、宿場の殆どを焼失、当時の町役が 願主となり遠州秋葉山より秋葉権現を勧請、1763年大運寺境内に秋葉社を建立し、 宿の安全を祈願した。 その後の明治の神仏分離令により現在に至っていると記載されていた。
延台寺の向かいには問屋場(北本町)が有ったはずであるが、跡の表示板も何も無い....。 (大磯には2つの問屋場が有った。)
【相模国風土記】問屋場:一は南本町にあり、南組と唱、間口5間、一は北本町にあり、北組と唱、 間口3間半 旬を期として相交り勤む
問屋年寄1人宛 帳付4人宛 人足役馬指共2人宛 日々交代して事を執る
東海道の人馬、西方 足柄下郡小田原宿へ4里、艮(うしとら:東北)方、大佳郡郡平塚宿 へ27町を継送る、又同郡田村へ2里半の脇の道、是は東海道の大路、隣郡平塚宿にて北方 に分る岐路なり、八王子道と云、を継送る....人夫100人、馬10足を定額とし.......


小嶋本陣跡 尾上本陣跡 地福寺山門 その先のNTTのビルの左隅に小島本陣跡の石柱がある。
小嶋本陣の記録によると、本陣利用の当日、小嶋本陣では主人自ら、あるいは手代を利用者 の出迎えのため下りは間の宿、梅沢、上りは間の宿南湖まで出迎えるのが通例であったよう です。
本陣跡のすぐ先の路地を左に入ると地福寺があます。当時はここに橋(境橋)があり、ここか ら西が南本町であった。
地福寺は承知4年(837年)の創建と云われ、大磯で亡くなった島崎藤村の墓所があるが、 歴史的な遺稿は見られなかったが、境内は綺麗に掃除され凄然とした感じであった。
【相模国風土記】山西村:……大磯宿の船着場、山西村海辺、字押切にあり廻船 其外、貢米岸地なり、按ずるに大磯宿地福寺の山号を着船と呼び、元大磯海浜にありしを其後、今 の地転ぜしにや…

街道に戻り、すぐ先の消防所の向かいに、尾上本陣跡の石柱がある。
さらに、もう少し先の右手(現大石館付近)に石井本陣があったはずであるが、案内板等は 無い。
参勤交代の大・小名のほか公家、宮家、勅使、幕府公用人などが本陣に宿泊する場合は当然予約 が必要で、それを先触といった。
先触は通常50日〜100日(場合によっては1年前)から各宿駅の本陣と問屋場に先触があったよ うです。
これは宿通過時の人馬の手配や宿泊先の本陣の利用を事前に確保する必要があったからです。
国道を歩いて行くと道は大きく右にカーブしますが、その左手に古ぼけた「照ヶ崎海水浴場」の 石柱があります。
これは、日本初の海水浴場(海水浴発祥の地)の石碑である。
海水浴発祥の碑 左側が旧東海道 さざれ石より東小磯方面.. 石碑のあたりに問屋場が有ったはずですが、ここにも何の案内もありません。
国道を右に見て、石碑の前を真直ぐ行く道が旧東海道でこの先を右にカーブして 「井上蒲鉾」の前で再び国道と合流します。
バス停には「さざれ石」とあり、国歌「君が代」に関係有るのかな……?
江戸時代はここからが南茶屋町となります。

*)さざれ石:さざれ石の由来について「拓さん」から掲示板に書き込みが有りましたので 紹介します。
さざれ石は明治時代に華道千家古流家元の井上 寿が大磯海水浴のお土産として、石そっくりの お菓子を考案し、海水浴の創設者、松本 順が「さざれ石」と名づけ、その店の後がバス亭の名 として残ったものです。

このへんから道は上り坂となります。国道の左手に海岸に出るゆるい下りの道路があり、 西湘バイパスの下に海が見えます。
その先左側に「湘南発祥の地」の石碑があり、左手奥が薄暗い右に降りる階段があり、小川が流 れています。
ここが浮世絵でも有名な鴫立庵で、俳諧道場でもあります。

鴫立庵 妙昌寺題目石 妙昌寺本堂彫り物 妙昌寺石仏

昔はこの庵の奥から海が見渡せたのでしょうが、西湘バイパスが出来、当時の景観はありません。
上の浮世絵は鴫立庵から花水川の河口を描いたものと、小田原方面を描いた物です。
坂を上がって行くと右手に妙昌寺がある。(境内には天保14年の石仏がありました。)
国道に戻り、更に坂を上がります。この辺からは運良く空気が澄んだ天気が良い日に めぐり合えば、正面の国道に架かる横断歩道橋の所に富士山が見えます。
東小磯の庚申塔 【東海道分間延絵図】を見ると、東小磯村の境、妙昌寺の向かいあたりに 傍示杭があり、そのそばに上部に矢来のような物が描かれた構造物があります。
これは見附ではないでしょうか?
また、傍示杭の先の右側に庚申、道祖神が有りますが、現在も大磯中学の手前の交差点(ガストの) の右側の民家の路地の奥まった所に庚申、道祖神がひっそりと祀られています。
大磯中学校から先は、箱根駅伝ででも有名な東海道の松並木が始まります。
樹齢の古い太い松並木が続きますが、私が大磯に来てからも台風や、大風で2本の松が 折れ、伐採されてしまいました。
交通量も多く、排気ガスにさらされながらも残っている松並木を大切にしたいものです。

大磯中の松並木 
	富士山が絵のように見えます…

松並木に入りすぐの大磯中学校の正門からも富士山が見えます…。
松並木が終わる所に伊藤博文の旧邸であった滄浪閣があり、国道の中央分離帯には道祖神が 置かれています。
国道を挟んで右手には宇賀神社があり、この辺からが西小磯となります。
西小磯の南側の路地に入って見た所、サボテンが有った。鶴見のサボテン茶屋のサボテンも こんな感じのもっと大きな物だったのでは......?

更に西進すると、国道左手に八坂神社がある。

東海道分間延絵図より


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