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東海道五十三次[小田原宿]
2001/10/21歩破

小田原は徳川以前の北条氏時代、対明貿易を行い、繁栄を極めていた。江戸時代の、宿場制
により、大久保氏十一万三千石の城下町を兼ねた宿場として、箱根越え・関所を控えた宿場
としても大いに栄えています。その規模は神奈川県内の宿場としては最大でした。
【小田原宿の規模】
本陣:4 脇本陣:4 旅籠:95
総家数:1,542軒
宿内人別 5,404人(男:2,812 女:2,592)
【江戸時代の名物】:ういろう、米饅頭、粕漬け梅、小田原提灯

いよいよ酒匂川を渡る。ここ酒匂川はその昔は、船渡しが行われていたが、1669年
船渡しが禁止され徒渉(かちわたり)制が施行された。
冬の時期を冬川といい仮橋を架けて往来したが、夏の時期の夏川は、手引、肩車、輦台
(れんだい)などを有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。
今は上流にダムが出来き、水量も少ないが、おそらく昔は水深はそれほど無くても、そこそこの
水量があったのだろう・・・・
昔の川渡しの、小田原側は、現在の橋より100m程、上流とのことで、橋を渡り、その辺を
散策してみた、それらしい遺稿は無かった。

川を渡ると当時は網一色村であるが、今は地名にも残っていない。
【相模国風土記】網一色村:江戸より19里29町 広6町、長8町 民戸53とある。
魚獲に便利なる地引網と云うもの当村にて始めて製造せしかば…
東海道村南係る、長6町43間、幅5間、古くは海浜を通せしと云
新田義貞の首塚:…其首級を瓶に収め酒匂川の辺に埋む、後に新田明神と崇む…
川を上ってからの街道は八幡神社の前を通り、国道1号線を横断し、城東高校の前を右折し
再び国道1号線と合流する経路であったとのことだが、川から国道までの旧道は解らなかった。
城東高校の付近に新田義貞の首塚がある。民家の路地を入った所で判りにくい所だが、手造り
の案内板が有り、スムーズに行けた。有りがたい事だ…
【新田義貞、首塚案内板より…】
1338年福井県藤島にて討死した新田義貞の首は足利尊氏によって晒(さらし)首となっていた
、その首を家臣(後の小田原城主大久保氏の祖先)が奪い返し義貞の本国(群馬県)に埋葬
するため東海道を下った、しかし、酒匂川のほとりの網一色村で病に倒れ、止む無くこの地に
首を埋葬し、自らも亡くなった。
首塚から街道に戻り、西進する、山王橋までの間、右に、左に、やけにお寺が多い。
それも日蓮宗の…気のせいか…。

山王川に架かる山王橋を渡ってすぐ左手に山王神社がある。境内には男根石があった。また
、旧東海道の案内板も有ったが、薄汚れて、判別が困難であったが、昔の街道はもっと南
の海側にあったようなことが書かれていた。
【相模国風土記】山王原村:江戸より19里32町、民戸101、東西6町19間、南北
7町程、東海道古くは海浜を通じ、小田原古新宿町へ達せしと云、今此道同所、新宿町
に達せり
山王橋:東海道中、芦子川に架す、板橋なり、長18間、幅3間、芦子河原に刑場
有り
神社を出て、まもなく横断歩道橋があり、その右手に小田原宿の江戸口見附があった。
石組みに松の木が植えられている。国道の反対側には一里塚跡がある。
一里塚と見附が同じ所に有るのも不思議な感じである。
説明文には次のように記述されていた。
【相模国風土記】一里塚:江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、
塚上榎樹ありしが、中古槁れ(かれ)、今は松の小樹を植ゆ、古は双こうなりしに、
今隻こうとなれり、けだし(おそらく)海道の革(あらた)まりし頃、一こうは海中に入し
ならん。これより東は小八幡村、西は風祭村の里こうに続けり。
天保にはすでに南の塚しかなかったようである。
【東海道分間延絵図】を見ると北の1里塚は土塁と繋がっているようである、見附のような
構造物は見当たらない。
南の塚は北条稲荷のすぐ傍で、1里塚跡の標柱の場所とは異なっている。
この一里塚跡の路地を南に入っていくと、じきに北条稲荷があり、蛙石が祀られていた。
この蛙石には下記の言い伝えがあるそうだ。
北条稲荷が建立されて以来(400年以上前)、蛙石明神と崇められてきた。
もともと小田原城内の庭にあったものを移したと言われているが、明治の大津波、大正の
大地震でも全く異動したかったため、掘り返したところ一丈掘っても、下部に達しなかつた
らしい。
小田原に何か異変がはある時には必ず鳴くそうで、北条時代に小田原落城の際は夜な夜な
鳴いたと伝えられている。
蛙石を見て、街道に戻るとまもなく浜町そして新宿の交差点となる、旧東海道はこの交差点
を直角に左に折れ、蹴上げ坂を上る、坂といえない程の坂だが…右は鍋町(なべちょう:
鋳物師が多かった)だ、100m程行って、右に折ると万町(よろずちょう:紀州藩の飛脚継立
所があった 旅籠:5)、この通りには蒲鉾屋が多い、そのまま歩いいくと高梨町(甲州街
道の起点、問屋場があった)、宮前町(みやまえちょう:高札場、本陣:1 脇本陣:1 旅
籠:23で本町とともに宿の中心)がある、その北が青物町(あおもの商が多かった)、西が
本町(本陣:2 脇本陣:2 旅籠:26)→欄干橋町(本陣:1 旅籠:10)→筋違橋町(す
じがばしちょう)→山角町(かわら職人が多い)→御組長屋(おくみながや)と町が続く。
それぞれの旧町名の場所には石柱が立っており、さすが歴史の町、小田原と感心した。
青物町交差点の手前に旅籠、小清水(現、古清水旅館)があり、その先に清水金左衛門本陣
跡があった。公園になっており、明治天皇行在所の碑が立っている。
【相模国風土記】小田原宿:19町、東海道の通る町、新宿、萬、高梨、宮ノ前、本、中宿、
欄干橋、筋違橋、山角の9町、長さ東西20町56間、道幅5間
古新宿町家数142 外神事舞太夫2戸 東西2町程、南北2町余、漁船46艘
廻船2隻、600石積
新宿町:家数124 外神事舞太夫4戸、東西2町26間、南北1町7間余
高梨町:家数58 外35店借、東西1町57間余、南北42間程
宮ノ前町:家数42 外16店借 東西1町半、南北43間5尺
本町:家数41 外3店借 東西1町27間半、南北51間余
中宿町:家数30 外借10 東西59間半余、南北56間半余
欄干橋町:家数29 外店借12 東西1町6間、南北60間半
筋違橋町:家数85 外店借18 東西2町13間半、南北22間
山角町:家数88 外店借5 東西3町、南北1町10間許
茶畑町:家数82 外店借27 東西2町13間、南北1町6間
高札場:宮ノ前町にあり
問屋場:一は中宿町に在、一は高梨町に在、東海道西の方は箱根宿まで4里8町、駅馬
を継ぎ、豆州三島駅まで8里、人夫を継立り、箱根駅は山中に在て、人夫に乏しきが故なり、
東方は淘綾郡大磯宿へ4里、人馬を継、熱海道は官事を帯て往来すれば、土肥吉浜村へ、人馬
を継、其道程4里、私事の往来は豆州熱海村まで人馬を継送れり、行程7里、
甲州街道も官事は多古村へ一里、私事は塚原村まで2里人馬を継立り……。
紀伊殿継所萬町に在、俗に七里役所と云、海道筋7里毎に建置れ、江戸より和歌山へ
急便に備へらる所なり。
甲州街道:青物、一町田、壷宿、大工、須藤、竹花の六町を経、侍小路を過ぎ井細田口
を出、荻窪村に通ず、幅3間
早川上水:西方、板橋村にて早川を分水し、山角町高圓寺境内内より東海道の大路
を疎通し、東方、新宿町より江戸口外左右の池に流れ入れり、此を今蓮池と呼り、……
此上水を府内町々に引分て飲水とす
その碑の北側に松原神社があり、南側の裏通りに抜けていくと袖ヶ浦地蔵尊(やぶはら地蔵)が
ある。昔、コレラが流行った頃、ごりやくがあったとのいわれのある地蔵らしい。
街道に戻り、本町に入と、立派な旧家が目に付く、これが東海道400年を記念した事業による
「なりわい交流館」であった。住吉や吉エ門の家を再現したらしい。中には小田原宿の資料
が若干ある、これから整備していくのだろうか?お茶を出してくれ、観光客の休憩場になっ
ている。(当然無料で嬉しい心遣いである)
その先の映画館の駐車場の奥に片岡本陣跡があった。
先の清水本陣と同じく、建物の陰に明治天皇が宿泊した場所という大きな石碑が立っている…
その路地を抜け裏道の代官町の更に南に徳常院がある。
昔、元箱根の賽の河原に有った露座の大仏がここに安置されている。
明治の廃仏稀釈で売りに出され縁あってこの寺に来たようだ。
また境内には古い石仏郡がある。
街道に戻り西に進むと、やはり右手に久保田本陣跡がある。
上のF・ベアトの小田原宿の写真を見ると、右の手前の建物に「かめや??」の看板が見える
先の「なりわい館」の資料の明治の小田原街並図より中宿町と本町の間に「亀や助七」の家が有る、
これが「かめや??」ではないだろうか?ちなみにその通りであったならば、左手の大八車の後ろの
建物は問屋場である(東海道分間延絵図では箱根側を向いて右手にあるが...)また「かめや??」
の先には脇本陣が有ることになる。
久保田本陣跡の向かいウィロウ屋があり、その先、国道の左に古そうな薬屋があった。
その先の左奥に山角町の山門天神がある。
この辺から板橋見附までの800m程は直線だ。
板橋見附の手前のJRのガードを左に曲ると湯河原、熱海への道である。
左折し、200m程行くと左手に小田原城早川口の遺稿がある。
これは東海道分間延絵図にも無い事から恐らく北条時代の物であろう。
街道に戻り、すぐ居神神社、そして大銀杏の光円寺が見える。その向かいには小田原城主の
菩提寺、大久寺があったが、なぜか歴史の重みを感じなかった。
JR東海道線のガードをくぐると、地名の通り、上方見附だが、特になにもない。
【相模国風土記】板橋村:江戸より行程20里22町26間、戸数凡136、東西13町
南北凡6町 小田原用水:早川のつつみに小門を設て小をつつみ入れ、村中を流れ
幅6、7尺、小田原山角町に入、府内の飲水となす
その先の新幹線のガードをくぐると、街道は国道と別れ右に入る、旧道のため、車の通り
も少なく落ち着いた雰囲気の町並みで、古い家も所々に見られる、途中、醤油の醸造会社
の変わった建物があった。
その先を行くと、右手上に板橋の地蔵尊がある。
ご本尊は永禄12年(1596年)に造られた3.3mの大座像との事、残念ながら見えない。
また本堂の右側には大きな大黒様も木像があり、驚いた。ほかに境内に明治戊辰の役の際に
犠牲となった官軍の慰霊碑があった。
板橋の地蔵の前に旧家があり良い雰囲気…その先、箱根登山鉄道のガードをくぐると
再び、国道と合流する。
ここで15:14 小田原駅までの戻り時間を考慮して、この先は次回とすることとした。
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