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生麦事件【詳細】
改めて調べた生麦事件の概要は下記の通りである。
文久2年(1862)8月21日、島津久光の大名行列400人は暑さでうだりながら宿泊予定の神奈川宿に向かっていた。
事件が起きたのは、丁度午後2時くらいであったそうだ。
その日は日曜日で,横浜関内に隔離されたイギリスの居留民が小旅行を楽しむ日でもあった。
居留地で朝配られる週刊新聞の「ジャパン・ヘラルド」紙に,ある神社が紹介されていた。
サン・マルコ寺院に似たハトがたくさんいる場所とあった。
記述と自由行動可能な範囲から、それは川崎大師と今日では特定されている。
関内にいた外国人による証言だが、翌日は敕使が通過するので外出は禁止、当日も島津の大
名行列があるから、ピクニックはひかえるように注意が出されていたとのことであった。
にもかかわらず、イギリス人商人で,横浜居留地委員長のウィリアム・マーシャル,その
ビリヤード仲間だったハード商会横浜駐在員ウッジローブ・チャールズ・クラーク,商人
チャールズ・レノックス・リチャードソン,それにマーシャルの從妹で22才のボロデイル婦人の
マーガレットの4人が川崎大師への乗馬旅に出たのだ。
生麦村字本宮の質屋兼豆腐屋をいとなむ村田屋勘左衛門の家の前で最初の遭遇があった。
言葉が通じない悲劇,文化の違いが生んだ悲劇だったとしか言いようがない。
大名行列を馬上に乗ったまま通過させるのが、どれくらい非礼なことか、ピクニック気分の
彼らには分かっていなかった。
最初に先頭のリチャードソンが奈良原喜左衛門に斬られた。
マーガレットは帽子と前髪を斬られたが、仰天して馬で駆け続け、一気に横浜まで逃げ帰
った。
彼女は無傷ながら気が動転していて医師の治療を受けたという。
非礼な帽子は斬ったが、女性は意思的に斬らなかったのだろう。
この辺の対処に、非常事態ながら日本武士の判断と寸斬りの技を感じる。
マーシャルとクラークも「無礼者!」と叫ぶ海江田信義と久木村利久に斬られたが、どうに
か馬を走らせてアメリカ領事館があった本覺寺に逃げ込み、血まみれでぶっ倒れた。
そのまま寝かされてる所に、呼ばれて駆けつけたヘボン医師の応急治療を受けて二人は一命
を取りとめることができた。
いかんせんヘボン医師は内科医だったので外科手術は不得手だったらしい、クラークは後
遺症で左手が上がらないようになってしまったという。
ヘボン医師とは、いうまでもなくジェームス・カーティス・ヘップバーン(1815-1911)で、
日本語のローマ字記述ヘボン式でその名を知らぬ人はいないが、開国日本にとっては、かけ
がいのない恩人でもあった。
薩摩武士は深追いはせず、最初の無礼を排除しただけで済ませている。
リチャードソンは初太刀が深手で、傷は内臓まで達していたらしい。
遭遇現場、村田屋勘左衛門家の前から700メートルばかり逃げたらしいが、途中で内臓片が
道に落ちたという。
そして今、生麦事件の碑がある所まで逃げて倒れて苦しんでいたので、もうひとりの武士が
、介錯をして楽にしてあげた。
別の言い方をすればとどめを刺した。
近くの水茶屋を営む、おふじさんという女性が家から筵を持ってきて死体にかぶせてあげた。
遺体はその夜10時に本覺寺へ運ばれた。(甚兵衞という人が戸板に乗せて運んだそうだ。)
この後薩摩の行列はすぐ近くの神奈川宿での宿泊予定を取りやめ、保土ケ谷(5Km)に宿泊先
を変更した。
翌日は期日は藤沢(7.3Km)、平塚(13Km)、大磯(3Km)そして、次の小田原(16Km)まで駆け抜けたそ
うだ。
彼らは幕府に対して下手人は足軽の岡野シンスケであり、逃亡中でまだ見つからないと、架
空の人物を届けでているらしい。
その後幕府は10万ポンドの賠償金を支払い、薩摩は翌年薩英戦争で叩かれているから日本側
の公式記録はほとんど残されていない。
「生麦事件」についてより詳しく知りたい方は新潮文庫の吉村 昭 著 「生麦事件」を読ん
でください。
非常に面白い本です…。
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