川崎宿
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東海道五十三次[川崎宿]
2001/10/02 歩破

川崎宿は他の宿より遅れて1623年(元和9年)につくられました。
開設後は厄除けで知られる川崎大師信仰が広がるとともに栄え、旅人はもちろん多くの参拝
客で賑わいを見せました。
この宿は、多くの旅籠のほか油屋、煙草屋、小間物屋、酒屋などが店を広げ、大工、鍛冶屋
、桶屋などの職人や農民も居住しており、活気に満ちた宿場でした。
もともと川崎宿のあたりは砂浜の低地で多摩川の氾濫時には冠水の被害に見舞われる地域で
、旧東海道は砂州の微高地上を通るよう配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当っては、宿
域に盛土が施されました。
【川崎宿の規模】本陣:2軒 脇本陣:なし 旅籠:72軒
総家数:541軒
宿内人別 2,433(男:1,080 女:1,353)
【江戸時代の名物】川崎大師参り、万年屋の奈良茶飯、
新田屋のハゼ料理
横浜駅で京急に乗り換え京急川崎へ向かった、空いていたので各停に乗ってしまったのが
アダで各駅での停車時間が長く大失敗であった。
川崎駅に到着、南側の商店街を抜けると砂子一丁目の交差点があり、そこを左折すると旧
東海道で旧東海道の道標と川崎宿の大きな案内板が有った。
その案内板の場所が中の本陣跡、高札場跡で、道路を隔てて 問屋場跡があった。
そのまま東に進むと左手に助郷会所跡そして本町郵便局があり、その斜め向かいに田中本
陣跡が有った。
田中本陣は宿内最古の本陣で、名主でも有った田中休愚は財政難であった川崎宿の建て直し
を行い更には酒匂川、六郷川の治水、灌漑事業を成し遂げ幕府の勘定格代官にまでなった人
物である。
田中本陣跡の先で旧東海道は国道409号と交差する。(本町交差点)
信号を渡ると道路の左角に稲荷横丁の石柱と新宿の案内板が有った。
国道409号が稲荷横丁で、この付近が新宿だったらしい、街道の南側には「弘法大師への道
」の道標が立っている。
街道はゆるやかに右にカーブし、新六郷橋へ通じる国道15号の下をくぐる形となるが、くぐ
る手前の川側(左手)に旅籠兼茶屋の万年屋跡の案内板がある。
川崎宿の茶屋は万年屋、新田屋、会津屋、藤屋が大きく特に、奈良茶飯で万年屋が有名…
新田屋はハゼ料理で有名であった。
イギリスの園芸学者 ロバート・フォーチュンが1860年(万延元年)に在
日したときの見聞禄【幕末日本探訪記】講談社学術文庫によると、当時の
大きな茶屋である梅屋敷、万年屋について次のような記述がある。
「数人の女中が急いで迎えに出て…かわいらしい小女に案内
されて部屋に招じられ、旅の疲れを回復して、食事をしたのは喜ばしいことであった。
−−−中略−−−私の前に置かれた低い正方形の卓の上には、いろいろな甘い菓子や干しく
だものやお茶などが並べてあった。
茶屋の若い女たちが、私の前や両側にすわって、お茶をついだり、菓子やくだものを勧めた。
その間に他の女は、殻をむいて塩をつけたゆで卵を、私の口に運んでくれる世話焼いた。」
大きな茶屋は遊興場所であったのである。
六郷の渡し場は国道の下をくぐり、十字路を左折するが、その交差点の右に万年横丁、大師道
の道標がある。
左折しすぐ正面に川崎大師の燈籠と明治天皇の渡御碑があり、碑には「武州六郷航海図」の
レリーフがある。
明治元年、明治天皇は23隻の船で作られた船橋で六郷川を渡ったとの事である。


現代の河川を見ると、高い堤が築かれ、架橋されているのが当たり前となり、自然の状態の
河川を見る事は殆ど無いといってもいいだろう。
六郷渡しの模型が昔の河川を表している、川岸から堤もなく、そのまま川崎宿へ東海道が延
びている。昔の河川は皆こうで有ったのだ。
当然の事ながら当時の名残は全く無い……。
六郷川(多摩川)を見て、来た道を田中本陣跡まで戻る、本陣の説明板に宝暦11年(1761年)
の大火で川崎宿は小土呂〜六郷渡し場まで全焼したとの記載が有った。
そこから街道を右に入り、京急の線路脇にある一行寺を覗いて見る、当時は閻魔信仰で賑わ
ったらしいが、昔の名残は全く無いようであった。
次に街道を隔てて反対側の国道15号脇の稲毛神社へ足を向けた。
神社付近は川崎堀の内で夜の街…ソープ街があり、途中組事務所らしい所で胡散臭い人が集
まっていたりと、チョット怖い雰囲気が漂っていた。
稲毛神社は明治維新以前は山王社と云われており、境内には「武相各所旅絵日記」で有名な
山王さまの大銀杏が有り、みごとに色づいていた。
また、田中 休愚が奉納したという手洗石(ちょうずいし)が境内の片隅に有った。
それから、川崎宿の飯盛り女の供養塔のある宗三寺に向かった。
宗三寺の本尊について「江戸名所図会」には「本尊釈迦如来は1尺ばかりの唐仏なり」とある。
供養塔は川崎宿貸座敷組合により建立されたものだそうで、すぐに見つかったが風化も無く
立派なものであった。
再び街道に戻り、ガイドブックの佐藤本陣を探し回るも、結局見つけられなかった。
なお、神奈川県東海道ルネッサンス推進協議会発行の宿場マップSTEP1には佐藤本陣は無い。
止む無く街道を西進、JR川崎駅前の広い通りを渡ると、すぐ右手に小土呂橋の擬宝珠が
あった。
小土呂橋は東海道と新川掘(幅5m程)の交差地点にあった石橋(小土呂橋)で、川が暗渠
(新川堀は地下を流れている)となったため、擬宝珠が残された。
小土呂橋を過ぎると車や人の通りが極端に減る。300m程西に行った右手の病院の所に川崎宿
の京入口である上手土居跡がある。跡といっても説明看板のみだが…土居とは切石を積んだ
もののようである。
要するに見附である…?
土居内(川崎宿)は832間(約1512m)あった。
生麦事件後の1862年(文久2年)外国人遊歩区域となり、川崎宿にはこの土居付近に外国人警
護のため第一関門が設けられた。(川崎宿から保土ヶ谷宿まで19箇所に関門が設けられた。)
関門番所には宿役人二名、道案内三名が詰めて警戒にあたり、非常の際は半鐘を鳴らし隣の
番所に連絡をとった。
土居を出ると街道は平坦で真直ぐ一本道の八丁畷となる。
八丁畷で街道は監視員の居る踏み切(今時珍しい)で京急をまたぐが、その20m程手前に
芭蕉句碑が有る。元禄7年(1694年)江戸を発ち郷里の伊賀へ帰る途中、同送してきた門弟
達とここで別れたのだ。
八丁畷の街道の両側は一面の田畑で、このあたりには腰掛茶屋があり、芭蕉らはこの茶屋で
だんごを食べ、休憩した。そして最後の別れを惜しみ、「翁の旅を見送りて」と題し各人が
俳句を読み合った。
刈りこみし 麦の匂いや 宿の内 利牛
麦畑や 出ぬけても猶 麦の中 野坡
浦風や むらがる蝿の はなれぎは 岱水
これの返句として詠んだ俳句が句碑の
麦の穗を たよりにつかむ 別れかな 芭蕉
である。
踏み切りを渡るとすぐ左手に供養塔があった。
説明文によると、明治以降この辺から多くの人骨が出たらしい、調査の結果、江戸時代の人骨
と判明、飢饉や疫病などで死んだ無縁仏をこの辺に埋めたのであろうとの事であった。
芭蕉句碑から7〜800m程で徳川家康が入国に際し、武運を祈ったされれる熊野神社がある、
神社といえば杉や松などの木に囲まれた環境を考えるが、ここには本殿まで木は無く不思議
な雰囲気の神社であった。
神社の前を左に入り京急鶴見市場駅前に行くと、専念寺がある。ここは紫式部の持念仏と伝え
られる「市場観音」と富士山から飛んできた「夜光石」「お乳石」「イボ地蔵」が祀られ
ているとの事だが、お稲荷さんも祭られ、どれがどれだか解らなかった。
街道に戻り300m程で左手に市場の一里塚跡がある。残念ながら崩れた塚を修復しお稲荷さんを
祀ったとの事、昭和初期まで榎の大木が茂っていたらしい。こんもり盛り上がった所が一里塚
の名残か?
ここ、市場の地名について調べてみると、その昔現在の京急鶴見市場駅付近は海が間近にあり、
漁業や、製塩業で生計を立てる人が多く、天文(1532年〜1554年)のころ海産物の「市」が
開かれるようになったため「市場」と言われるようになったとの事である。
また、【武蔵国風土記稿】によると、市場の名物として、米饅頭
が登場する。
一里塚から500m程で鶴見川となる。
左の堅絵東海道川崎は鶴見橋で現在の鶴見川橋より若干上流に架かっていたようである。
また、東海道風景図会より鶴見橋は26間(約47m)あった事が解る。絵は川崎宿側から見たも
ので、橋の手前の大きな棒が境界を示す傍示杭で、こうのように棒の建てられた所を棒鼻と
いう。棒の手前は立場、市場の立場…
現鶴見川橋を渡るとすぐに5番目の鶴見橋関門旧跡の碑がある
幕府は万延元年(1860年)4月に横浜の外国人保護のため横浜に入る者を取締るため鶴見橋
に関門を設けた。
さらに1862年(文久2年)8月の生麦事件後には、なお一層の外国人保護のためここ鶴見橋に
川崎から5番目の関門番所を設けた。
関門跡の先50m右手に寺尾稲荷道標が有った。復元したもので、東海道のここから分岐し
北西に続く小杉道と寺尾道の道標である。
小杉道は現県道14号で末吉橋を渡り、川崎を経由し、江戸へと続く道で、寺尾道は現県道14号
の諏訪坂で南西に分岐し、馬場を通り菊名に抜ける道である。
寺尾稲荷とは現馬場稲荷である。
この稲荷は馬上安全、馬術上達に非常にご利益があるとして、当時、祈願をかける者が絶え
ることなく、寛永二年(1705)旧東海道鶴見橋際に「馬上安全 寺尾稲荷道」という
寺尾稲荷への道標が立てられました。
言い伝えとしては、
寺尾城主5代目の諏訪馬の助は生まれつき馬術が下手で、何
とか上達するようにこの寺尾稲荷に願をかけました。
すると、馬術は上達し、北条氏康の十勇士の中に名を連ねるまでになった
という言い伝えがあります。
道標の本物は鶴見神社にあるとの事で、鶴見神社に足を向けるも、境内には残念ながら見つけ
られ無かった。
鶴見付近の当時の街道の街並みは【東海道分間延絵図】の通りである。

これによると川崎宿から30町(約3.27km)の鶴見村字横町、鶴見神社の傍に立場の記述がある。
また、ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」で神奈川宿から
川崎大師に向かう際、神奈川より6マイルの茶屋で休んだとある。その距離からすると
鶴見の立場となる。その茶屋の様子は次の通りである。
旅行者が食事や休憩をする茶店は、街道の目に付く所に数百ヤードおきにあった。これらの
店は商店のように前が開け放しで、畳を敷いた床上に、客が座って休んでいた。食器類はよ
く見える場所に、徳利、湯沸し、茶わん、盆などの多くの必要品が並べてあった。ある茶店
に近づくと、きれいな娘たちが、上等の茶をいれた茶わんをいくつもお盆にのせて、道の
真ん中まで出迎えた。そして旅の疲れを回復するために、食事をしきりに勧めるのだった。
そこで神奈川から約六マイルのところで、並より幾分大きい、一軒の茶店にはいった。この
茶店の亭主は、旅行者や役人の馬に水をやることを、自分の務めにしているらしかった。その
ために1人の男が馬にやる水桶を用意してくれた。そうした手数に対する心付として、小銭を
おいて行くのが習慣になっている。
この記述から、鶴見にはそこそこ大きな茶屋が有った事が解る。
【江戸名所図会】に志からき茶屋(信楽茶屋)の絵が有り、その記述は
「生麦は河崎と神奈川の間の宿にて立場なり。
此地しがらき屋といへる水茶屋は、享保年間廊を開きしより梅干をひさぎ梅漬の生姜を商う。
往来の人ここに休はざるものなく今時の繁昌な々めならず。」
とあり、生麦に大きな茶屋が有ったように記述されているが、
他のホームぺージでも志からき茶屋は生麦ではなく鶴見に有ったとあるが、私もそうだと思う。
もし生麦に大きな茶屋があったなら、ロバート・フォーチュンが紀行文の中で記述している
のでは無いだろうか?
ロバート・フォーチュンが休んだのは志からき茶屋であろう……。
なお、武蔵国風土記稿にも残念ながら信楽茶屋につての記述は無かった。
「志からき茶屋」は、土間に縁台を置いて、梅干と梅漬けの生姜(しょうが)が売られてい
た。また、この茶屋の前には鶴見関門番所の出張所が有ったとの事である。

鶴見神社を出ると街道は急に人通りも車の通りも極端に少なくなる。
300mほど歩き京急鶴見駅前付近に来てようやく繁華街となるも、駅前を過ぎると再び人通り
も車の通りも少なくなる。
京急鶴見駅付近には「さぼてん茶屋」跡があるはずだが…見つけられなかった。
帰ってインターネットで調べた結果、エスプラン洋菓子店の脇に石碑が有る事が解かった。
覇王樹茶屋 (さぼてん茶屋)は弘化二年(1845)江戸を発った吟味役森七三郎の
【江ノ島参詣之記書写】にも紹介されているかなり古いもののようで、次のように
紹介されている。
「川崎の宿を立出、市場を過、橋を渡りて鶴見村の入口、小き茶屋に休。庭に大なるさぼてん
五株有、高さ七八尺、幹は木に成て枝数多く茂りて莟あり。五月中黄なる花を開くと云。
今迄は草の数を思ひしに、是を見て覇王樹といへるも、ことはりなることを覚へぬ。
あるじの婆々に幾年ほど過ぬととへば五十年余に成ぬと云」。
なお、お店の看板であったさぼてんも、明治四十四年の鶴見の大火で焼けてしまったとのこと
です。
また、園芸学者のロバート・フォーチュンの「幕末日本探訪記」の中でこの覇王樹茶屋 (さ
ぼてん茶屋)が出てこなかったのは残念である。
京急鶴見駅を過ぎ400m程で街道は15号線と交差するが、その間も人、車ともに非常に少ない
裏町といった感じの街道であった。
15号線を渡るとまもなくJR鶴見線の高架の下をくぐる、このあたりから生麦魚河岸通りで
ある。
ここ生麦は江戸時代は幕府に魚を献上する御菜八ヶ村の一つとして賑わったこともあり、
今でも通りには魚屋の看板があちこちに見られるが、休日のため?全てシャッターを下ろし
閑散としていた。(江戸時代ははまぐり、たこ、イカの産地)
生麦五丁目に入り右手に慶岸寺があり、その横に子育て地蔵の祠があった。
生麦四丁目に入り、しばらく行くと右手に道念稲荷神社があり、この地区で有名な「蛇も蚊
も」の説明パネルがあった。
解説ぱねるによると
「蛇も蚊も」は300年前に悪疫が流行した時に、萱(かや)で作った蛇体に悪霊を封じ込め
海に流したことに始まると伝えられている。
近年は6月の第一日曜日に行われている。
従来は生麦村の本宮(道念稲荷神社)と原(神明社)で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇、
原のものが雌蛇といって境界で絡み合をさせていたが、現在は両社別々の行事となっている。
この神社から街道は大きく右にカーブする。魚河岸は見られなくなり両脇とも住宅街となる
300mほど行くと、右手の住宅のフェンスに「生麦事件の現場」のパネルがあった。
今まで、生麦事件は生麦事件の碑のある所が現場と思っていたので、非常に驚いた。
【生麦事件詳細につい】
生麦事件の現場から西進し、県道6号を横断しまもなく、街道から一本北に入った所に神明社が
あった。
ここが「蛇も蚊も」の雌蛇に由来する神明社で社で東端しに道祖神の祠が有った。
立て札に「原西自治会」の名があり、この辺が原町で、川崎宿からの距離が一里六町、神奈川
宿から一里十二町の、分間延絵図の原町の立場である。
神明社の先から街道の左手(北側)はキリンのビール工場が延々第一京浜(国道15号)と合
流するまで続いていた。
第一京浜(国道15号)と合流しすぐ左に生麦事件の碑があった。
ここでリチャードソンが死んだのだ…。
事件碑の先200〜300mで市場の一里塚から4km....この辺に子安の一里塚があったはずだが、
今はその痕跡も何もない。
武蔵国風土記稿に「子安一里塚:左右とも東子安村地内にあり、右は榎、左は松を植ゆ、
江戸より六里…」とある。
第一京浜は片側2車線の広い道路である。
主要幹線らしく車の通りも多く、昔の東海道を感じさせるものは全く無かった、
唯一、子安駅の手前右手に遍照院があり、入り口に道祖神が有った。
東海道分間延絵図によると、遍照院の手前に一里塚がある。
入江橋を渡り、京急子安駅に15:20着…横浜経由で帰途に着いた。
川崎から平坦な道であったが、かなり疲れた....。
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