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東海道五十三次[神奈川宿]
2002/1/19 歩破

昔の東海道は海に沿って延びており、ここ神奈川宿もちょうど東海道有数の景勝地
である「袖ヶ浦」のそばにありました。
そのため、旅人はもちろん、観光で訪れる客も多く、最盛期には、近隣の宿の二倍の人口
を抱えたといわれております。
神奈川は安政五年(1858年)の日米修好通商条約締結後、開港場としても賑わいました。
【神奈川宿の規模】
本陣:2 脇本陣:0 旅籠:58 総家数1,341軒
宿内人別 5,793人(男:2,994 女:2,849)
10:50 京急子安駅下車、第一京浜(国道15号)にでて、右折し、西の神奈川新町駅へ向か
う。
400m程歩いて線路の方へ右折すると、公園が有った、植え込みの影に石碑が見えたので、覗
いてみると、オランダ領事館跡の石柱が有った。偶然とは云えラッキー…
ここが長延寺の跡であり、神奈川宿の江戸見附跡でもあった。
そこから20mほどで神奈川新町駅で、東海道の案内板が有ったが、落書きで汚されていた。
京急の線路沿いに西進し、電車から見えた笠脱稲荷神社へと向かう。
ここは天慶年間(938〜947年)に稲荷山の中腹に祀られ、元寇の際には北条時宗より神宝を奉
納されているという由緒ある神社である。
元禄2年(1689年)に山麓に移り、霊験ますます、あらたかとなり、社前を通行する者の
笠が自然に脱げ落ちる事から笠脱稲荷大明神と称された、その後、明治2年に現在の場所に
遷座されたとのこと。

境内には鎌倉時代末期と言われる板碑があった。(横浜市指定有形文化財)
神社を出て、南に下ると第一京浜とぶつかる左手に良泉寺がある。
慶安元年(1648年)に現在地に移転、横浜開港当時、諸外国の領事館に充てられないために、
当時の住職が本堂の屋根を自らはがし、修理中であるとの理由で幕府の命令を断った事で有
名な寺である。
ここから北西に200mほどで能満寺、正安元年(1299年)この地の漁師が海中より霊像を拾い上
げ祀った寺で、本尊は高さ5寸、木造坐像の虚空蔵菩薩、昔は神明宮の別当寺であったが、神
仏分離令で分かれた....門前の右手に芭蕉の句碑「父母のしきりにこひし雉子の声」安永四乙
十月十二日があった。
すぐ傍に神明宮があり、その先に神奈川小学校、塀に東海道分間延絵図が描かれていた、第一
京浜側には日本舶用エレクトロニクスがあった。


その先には東光寺があったが、山門は閉ざされていた、本堂は最近建てられた様であった。
山門脇には大きな焼け枯れた木があり、本堂は焼失したのでは……
熊野神社に向かう、ここも神明宮と同様、神仏分離令で金蔵院から分離した神社、境内には
大きな手書きの東海道の地図(分間延絵図?)が置いてあった。
また嘉永年間に作られたという大きな石の獅子が置いてある。
江戸時代には祭礼で大いに賑わったようだ…。
神社の裏手には金蔵院、昔は隣り合っていたとの事、立派な山門があり、境内には徳川家康の
御手折梅が有った。残念ながらまだ花には早かった。
また、桜の木もあり、花の時期にもう一度訪問したい...。
金蔵院を後にし、いよいよ復元された高札場のある神奈川地区センターに足を向けた。
センターの外にドーンと高札場が有った。想像していたものよりズーッと大きく驚いた。
センター内には神奈川宿のジオラマが置いてある。
ジオラマではオランダ領事館跡(長延寺の跡)の手前に一里塚があるが、東海道分間延絵図を
見ると、一里塚は東子安にあり明らかに間違いである。
「神奈川宿模型」詳細
センターを出てアメリカ人、宣教師のヘボン博士(ヘボン式ローマ字の…)の宿舎であった
成仏寺に向かった。
成仏寺の南の公園に「明治天皇御在所の碑」があった。
小田原の本陣跡の天皇御在所の碑からして、ここが本陣跡であると思った。
(帰り、調査すると、その通りであった。)
本陣跡の公園を横切り、滝の川脇の道路を遡り、慶運寺(フランス領事館跡)に向かう。
京急の線路を越え、滝の川の右手に寺はあった。この寺は、浦島寺とも云われており、境内
には浦島父子墓があった。(本堂は工事中で見れなかったが浦島観世音が有るようである。)
そういえば、子安通りの西の地名は「浦島町」であった。
浦島太郎伝説は兵庫県の日本海側と聞いていたが、まさか神奈川にもあるとは思いもよらなか
った……。
「その後の浦島太郎伝説」詳細
慶運寺を出て、滝の川沿いに第一京浜に向かう、しばらく行くと右手に土橋(どばし)が有り
、そこを渡ると正面に塀に囲まれた家があり、塀越しに、庭に赤錆びた、古い大砲が目に入っ
た。
それにしても何故…ここに大砲……生麦事件での攘夷に怯えた領事館が自己防衛のために用意
したのか…?
門には岩崎の表札が有った。(明治時代の岩崎弥太郎がイメージされた…)
岩崎家の右手は最近造成された駐車場があったが、その境界が家の庭とアンバランスで、つい
最近まで駐車場を含めた一帯が岩崎家の庭であったと想像された。
遺産相続で切り売りしたのでは....。
岩崎家の門を右折すると正面にイギリス領事館のあった浄瀧寺が見える。
浄瀧寺の裏手には古いレンガ造りの塀が有る。 領事館時代に造られた物かも…
来た道を戻り土橋を渡り、第一京浜を越え神奈川台場跡に向かう。
安政6年(1859)5月に勝海舟の設計による海防砲台を構築した。
工期1年を要し、万延元年(1860)6月竣工した。総面積約26,000平方メートルで明治32年
2月廃止され、大正10年ごろから埋め立てられ、現在は石垣の一部が残っているのみである。
安藤広重が描いた「神奈川宿」の浮世絵(3/7ページ)の右手に干潟?らしき物が見えるが
ここを埋め立て後に台場を築いたのではないだろうか?
滝の川橋を渡りヘボンの施療所のあった宗興寺を探す、滝の川の左側を遡り左の路地を入ると
神奈川の大井戸があった。
江戸時代には東海道の名井戸に数えられ、宗興寺を大井戸寺とも呼ぶ程であった。
また、この井戸の水は神奈川御殿に宿泊する将軍のお茶の水に使われたとも言われている。
さらに、この井戸の水の増減で翌日の天気を判断したことから「お天気井戸」の由来がある。
その上が宗興寺で岡の麓の小高い場所にあった。(鉄筋の建物)
第1京浜に戻り、山の麓沿いに西進し、宮前商店街入口を右折、商店街の中程に
源頼朝が建久2年(1191年)創建したといわれる洲崎大神がある。
鳥居から第1京浜に真直ぐ下る道の第1京浜の交差点あたりがかっての船着場で
横浜開港後は開港場と神奈川宿を結ぶ渡船場となり、宮ノ下河岸渡船場と呼ば
れる海陸警護のための陣屋も造られた。
洲崎大神の隣に普門寺がある、ここは開港当時、イギリス士官宿舎に充てられた寺で、元々
洲崎大神の別当寺であった。
境内に入るも往時の寺らしい本堂は見られなかった。
その先の小路を右に入った所にフランス公使館跡の甚行寺がある。
甚行寺をすぎると、青木橋でそのたもとに神奈川駅があり、東海道の案内板が
ある。
青木橋の右上30度位の高台にアメリカ領事館跡の本覚寺が見える。
青木橋の下にはJRの線路が通っている。

橋を渡り、本覚寺への坂道を歩く……
船着場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、湾内を見渡すことのできる
この地を選択したのは総領事ハリスであった。
実際に山門からの景色は良く、昔は海を見渡せアメリカ領事館は最高のロケー
ションだったに違いない。
生麦事件の被害者、のマーシャルとクラークがより近いへボンの施療所のあった
成仏寺やイギリス領事館に逃げ込まず、遠いアメリカ領事館に逃げ込んだのは
なぜだろうか?
山門の右手に横浜市の名木、古木に指定されているスダジイの木がある。(本堂は
修復中であった。)
本覚寺の坂を下り、東急東横線のガードをくぐると崖の下に大綱金毘羅神社があり、
境内の崖の真下には弁財天があった。
大綱金毘羅神社の前を東海道が通り、一里塚が有った(右、神社側の塚には桜が植
えられていた)のだが、今はその痕跡も無い。
ここを過ぎると上り坂となり、いよいよ台町に入る。
台町は神奈川の台とよばれ神奈川湊を見下ろす景勝の地で神奈川宿の最初の浮世絵
も広重による、神奈川宿台の風景である。
東海道中膝栗毛にも台の茶屋は次のように記述されている「爰は片側に茶
店軒をならべいづれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの
景色いたってよし」とある。
坂の途中左手に割烹田中屋があり、文久3年創業とある。
絵の櫻屋が現在の田中屋あたりといわれている。
坂の頂上付近には神奈川台関門跡がある。
横浜開港後、外国人への殺傷事件が起こり、イギリス総領事オールコッ
クをはじめとする各国の領事は幕府を激しく非難した。
〔横浜開港 安政5年(1858)6月:日米修好通商条約の締結により、長崎、
兵庫、横浜、新潟、函館の港が開港された。〕
幕府は安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化し
た、この時、神奈川宿の東西にも関門が作られ、西の関門がここ神奈川台の関門で
ある。(明治4年(1871)に廃止された...)
関門を過ぎると下り坂となる。
坂の途中に陸橋上大橋があり橋を渡った右手に東海道の解説パネルがある。
坂を下り切った右手の高台に勧行寺があるが、特に歴史的な物は見当たらなかった。
ここから環状1号線と合流する。(そのまま環状1号線に平行した道路もあるが…
東海街道ルネッサンスの宿場マップではそうなっている)
街道に戻り、西進する。町名が南軽井沢から浅間町になる。
県道13号線と交差する浅間下の交差点を右に入り、すぐの通りを左折するのだが、
間違いもう1本先の商店街の通りに入ってしまった……。
気がついて後ろを振り返ると右手に浅間神社の山が見え、すぐ引き返した。
浅間神社の境内には横穴古墳群があり、そこから須恵器の瓶、平瓶等が出土してお
り千年程前の遺跡との事である。
神社の右手には烏天狗を祀った祠があった。
気がつかなかったが、帰宅して調べると、鳥居を入って石段を少し上がった左の山
の半服に人穴が1つ、石段の右に1つあるそうで、富士の人穴といい、富士の山麓ま
で繋がっているとの伝説があり仁田四郎忠常が源頼朝の命で奥まで探検したといわ
れている。
山を下り、街道に戻る。右手は小高い丘が続く昔は左手に海を望みながら、松林の
続く街道を歩いたのであろう。
明治39年の横浜の地図を見るとかなりの地域が埋め立てられたのが解る。
国道ではないので車の通りは少ない……ようやく、右前方に保土ヶ谷宿の追分が見
えてきた。
東海道と八王子道の分岐点で八王子道まで9里、厚木まで7里の道程である。
追分を過ぎると松原商店街、安さで有名、休日は人でごった返している。
ようやく買い物の人ごみから抜け出し、国道16号線の交差点を渡る、渡ったあたり
が保土ヶ谷宿の江戸見附である。
その先の左手に橘樹神社(たちばなじんじゃ)があり、境内に神事に使われた力石
3個、延宝6年霜月(350年前)に江戸より寄進された石盥盤(いしだらいばん)が
置いてある。
昔は山王社と呼ばれていた…。
更に奥には県内最古の青面金剛(しょうめんこんごう)、寛文9年2月(1669年)の
ものが祀られた祠がある。
橘樹神社を過ぎると、帷子川はすぐ…橋を渡って相鉄の天王町駅だ。
平坦な道程であったが結構疲れた、駅前でMacを食べ、帰途に着いた。
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