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東海道五十三次[保土ヶ谷宿]
2001/10/02 歩破

江戸を出て最初の難所といわれる、急坂「権太坂」の手前に有った宿場です。
当時、「権太坂」のきつさは半端ではなく、途中で行き倒れる人を葬るための
投込塚までありました。そこで多くの旅人は保土ヶ谷宿で休息、英気を養って
坂越えに挑んだといわれています。
【保土ヶ谷宿の規模】
本陣:1 脇本陣:3 旅籠:67
総家数:558軒
宿内人別 2,982人(男:1,374 女:1,554)
【江戸時代の名物】:二八そば
PM14:20 相模鉄道、天王町駅から旧東海道を歩き始める。
駅を出てすぐ正面が帷子橋の跡で、橋を模した歩道が作られている。道路の車止は
「ちょんまげ」と「裃(かみしも)」をデザインしたものが並んでいるさすが東海道・・・
帷子橋(かたびらばし)、帷子川について調べていくと、現在、街道の左手を流れる、今井川の流れが、東海道
分間延絵図と食い違っているのに気がつきました。
調べてみると、下記の通りでした
享和3年(1803年)の「他の村明細帳」には,「今井川は,日照りの時はすぐに水がかれ
、大雨の時には下流部の帷子通りで氾濫する」と書かれています。
今井川は、大雨が降ると、川沿いの丘から雨水がいっきに流れこみ、川は曲がりが多いため流
れが悪く、さらに、帷子川(かたびらがわ)との合流点では,帷子川の流れが強いため水が逆
流し、特に土地が低い下流部の「保土ヶ谷宿」の街道沿いでは、度々洪水に苦しめられて来ま
した。
嘉永5年(1852年)に、街道筋の洪水に対応するため、保土ヶ谷宿の名主が「中の橋」の
上流から岩間町地内にかけて、川をまっすぐにしようと代官に訴えて許可を得、改修したそう
です。
これが現在の川の流れで,これ以前は県警交通反則センター付近で流れを北に変えて,旧東海
道と交差し帷子川へ流れていたそうです。
その後、相模鉄道の高架工事に伴い、帷子川も改修され、現在の状況になっています。
天王町駅からJR保土ヶ谷駅までは2車線のほぼ真直ぐな道が続き(途中で昔の相州街道への
分岐点となるT字路があり、小さな手造りの標識がある。)街並みは街路樹も植えられ小奇
麗に区画された町並みである…途中大正時代建造?と思われる古い家が何件か見られるもの
の東海道の面影はない、その道は保土ヶ谷駅前から急に狭くなり路上駐車も多くなり歩きに
くくなる。
本当に東海道を歩いているのか心配になりだした頃、保土ヶ谷税務署の標識が見え、左手に
保土ヶ谷税務署の建物がありホットした。その向かいの蕎麦屋に「高札場跡」の看板が有っ
た。
更に歩いて行くと信号の左手角に黒ずんだ石柱が有るのが
目に入った。「金沢横丁」であ。
ここが金沢八景への分岐点で、今も国道からの抜け道のようで八景方向からの車の進入が
多い。
先日、ここを通ると、一方通行になっていた…。
ここには見るからに古ぼけた4つの道標があり、それぞれ石柱には左から
「円海山之道(1783年建立)」
「かなざわ かまくら道(1682年建立)」
「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花(1814年建立)」
「冨岡山芋大明神社の道(1845年建立)」とある。
その横丁をすぎると、JR東海道線の踏み切りがあり、突き当りが国道1号線である。
交差点に近づいていくと正面のブロック塀の内に古い門の屋根が見える。それが本陣跡で
あった、はやる気持ちで信号を待つ、国道でもあり、その持ち時間の長い事…
信号を渡り正面に立つもブロック塀でよく見えない、個人宅なのでしょうがないが、
残念である。
1号線はとにかく車が多い、排気ガスもいやになる。
途中何軒か古い家(大正の建物か?)を見ながら(後に脇本陣と知る)
先に進むと左手に山が迫り、今井川が見えてくる、国道の右側の民家の裏を流れる下水のよ
うな小さな川が、外川神社 の信号のところで今井川に合流する…国道に架かる小さな橋に
茶屋町橋と書いてあった。
【東海道分間延絵図】を見ると、この少し先に、一里塚があったようだ、左側のみで右側は
無い。
また、上方見附もこの辺とのことであるが、【東海道分間延絵図】に見附の記載は無い。

いっも車で通る岩崎ガードのところに湯殿山の供養塔があり、「保土ヶ谷宿 文化庚午年
三月吉祥日再建」とあった。
東海道分間延絵図の解説を見ていると、この供養塔のすぐ傍に一里塚が有ったようである。
(但し、現在の場所より昔は南に有ったことです。)
右側の塚は早くから無く、左側の塚には榎が植えられていた…
そこをを過ぎると、ようやく1号線とお別れ、旧道だ、車の量も極端に 減りホットする。
旧道…昔の面影を期待したが、古い建物も無く、全く面影もない、
古そうなのは樹源寺の山門だけ…期待はずれであった。
街道は平坦でほぼ真直ぐ続き、右側の小高い所を東海道線が通り、道路のちょうど突き当た
りが元町で、元町ガードがある。
街道は左に曲がり、川を渡り、上り坂になる。
この橋が元町橋で橋の手前の右手に道祖神がある。
また橋を渡って左に元町の案内板があり、1648年以前の保土ヶ谷周辺の宿は元町
(元町橋周辺)と古町(天王町から峰岡町)にあったと書かれていた。
坂の正面に国道1号線の権太坂下の横断歩道橋が見える。たよりにしているガイドブックの
地図が大雑把で旧道の入り口が解らないのでは…と心配していたが、歩道橋の手前右に結構
急な坂道があり、それを上っていくと20m程で左手に権太坂改修の碑が有った。
坂は横浜横須賀道路の上を越え続く…、ふと振り返ると、遠くに横浜ランドマークタワーが
見えた。
更に上って行くと右手に権太坂の石柱が有る。ちょうど高校の敷地の下である。更に坂を上
り、小学校の手前に富士見屋という商店がある。
名前からして、空気の澄んだ日は富士山が見えるのであろう。
左手の小学校を過ぎると坂はようやく緩くなってきた。ちょうど尾根沿いの道で家がなけれ
ば非常に見晴らしの良い場所で有ったに違いない。残念ながら富士山は見え無かった。
方角も解らなかったが…
権太坂と富士山
坂を登りきって緩やかな下り坂になる頃から、いくつもの分岐があり(道幅も同じような)、
旧街道が解らず、行ったり来たりしながら歩いた。
そうこうしている内に境木のバスセンターにたどり着いた。投込塚を探す…方角が解らなく
なり、突き当たりのT字路(中学校の)を左折し緩やかな坂を下り、その辺にあるはずの投
げ込み塚を探し回ったが、結局見つからなかつた。
それもさることながら、街道の道が合っているのかも不安になり始めた。
中学校の所にあった境木地蔵の標識を見つけ、来た道を引き返し、取りあえずは地蔵まで
行くこととした。
結局は歩いて来た道が旧東海道で間違いないことを後で地図を見で確認した。
権太坂で亡くなった人々の投げ込み塚は、T字路を左折して150m程下った、左手にあることが
解った。もう50m歩いていれば....
権太坂を歩き思った事は、現在の坂は改修され、舗装され、さほどでもないが、周りの地形を
見ると、かなりの起伏があり、曲がりくねり、昔は箱根に次ぐ難所だったとの事も納得できる。
平坦になった所からの景色を見るとかなりの高低さが有るのに驚きます。
また、バスセンター前の道路(T字路)を右折したところが境木立場で、道路左手に旧家の
立派な門がありました。(若林家の門で屋号は立場屋だそうです)そのすぐ先が境木地蔵で
す。
境木立場 立場(たてば)とは、街道筋で馬や旅人が小休止するための
休憩所のことです。
境木立場では牡丹餅という焼餅を売る茶店があり、賑わっていたとの事です。若林家の有る
所に立場があったと云われています。
左の絵の視点と右上の境木立場の写真はほぼ同じ方向です。但し、絵の左側の坂は実際には
見えない品濃坂を描いているとのことです。
またここ、境木立場は浮世絵にも描かれており、鎌倉の山並みを望む風景から、若林家から
境木小学校の方を見た視線で描いたものと思われます。
境木地蔵 境木地蔵の境内には、大きなケヤキの木があり、堂前に相模と武蔵の国境の杭が
建てられていた事から「境木」の地名になったと言われています。地蔵堂内には石の地蔵(16
59年)が奉られています。
「境木地蔵の伝説」
境木地蔵を確認後、ガイドブックの地図を見ながら、再度投げ込み塚、そしてすぐそばに
あるはずの萩原代官所跡を探すもやはり見つからなかった。
ここでかなりの時間を無駄にしてしまった。宅地開発で、萩原代官所の門も壊されたのでは…
と探すのをあきらめ、一里塚に向かいました。
東海道分間延絵図を見てみるとこのあたりは当時の面影が非常に良く残されているのが解り
ます。この環境を是非残して欲しい物です…。
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