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東海道五十三次[箱根宿1]
2001/11/18 歩破
箱根宿はそれまで箱根山中に宿場が無かったことから、元和四年(1618年)箱根の山越えのた
めに新設された宿場です。
小田原宿と三島宿から各50軒ずつを移住させ、小田原町、三島町を芦ノ湖畔に造りました。
さらに翌年に「出女」の取り締まりの厳しさで有名な関所が併設されたといわれています。
箱根は街道随一の難所で、過酷な急坂が多く、街道制定時、これらの坂は雨が降るとスネまで
つかる泥道となるため、参勤交代の大名から不満の声が絶えず、竹道に変えられましたが、
毎年枯れるため、その調達と労力、費用がかさむため江戸幕府は延宝八年(1680)石畳を敷き
ました。
【箱根宿の規模】
本陣:6 脇本陣:1 旅籠:36 総家数:197軒 宿内人別 844人(男:438 女:406)
【江戸時代の名物】:甘酒、赤はら魚
AM10:15 小田原駅着、小田原城下のトンネルを抜け板橋見附→旧道…と先日の終点
の板橋の地蔵堂へと足を向ける。旧道と1号線の合流する、箱根登山鉄道のガードあた
りから、自分の前後に”小田原ツーデー…”と書いたゼッケンを付けた人が同じコース
を歩いている。のんびりと旧道をカッポしようとしていたのだが、ガッカリ…
ゼッケンから判断すると、昨日(土曜日)から今日の2日間で40Km、30Kmと歩く人
達のようである。まさかズッート同じコースで無いことを祈った。
彼等はだだ黙々と歩く…、自分とは全く目的が異なるのだ……
国道1号線は休日のためいつもの如く渋滞、遅々として進まない車を横目に歩く、
チョット優越感を感じる。右手に箱根登山鉄道の線路が迫り、まもなく街道は
国道と別れ、踏切を渡り右に入る、風祭に入った。旧道は車も少なくホットする。
街並みもなんとなく街道らしく感じるから不思議だ。
第1のターゲットは風祭の一里塚跡である。
【相模国風土記】風祭村:江戸より行程21里、家数85、東西6町、南北7町程
東 板橋村、西 入生田村 北 水野尾村及、伊張山を隔、久野村 東海道村中を
貫けり、道幅2間或は3間 当場は立場なり、東方小田原札ノ辻より26町 西方湯本茶屋
へ1里 湯本つつみ:北を流るる田間の用水なり
一里塚:東海道側に双こう有り、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、
西方湯元茶屋の里こうに続けり
相変わらずツーデーウオークの人が多く、写真を撮るにもはっきり行って邪魔だ、
(次から次へと人が来る…)しかし昔の東海道もこんな風に人が行き交ったのであろう。
当時の状景を想像しながら歩くのは非常に楽しい....。
左に山が迫り、ゆるい上り坂を越えると、正面に紹太寺の看板が…入生田の紹太寺まで来てし
まったのだ。
止む無く、風祭駅付近まで戻る....風祭駅の近くまで戻った所で一里塚跡を見つけた
脇には用水が流れ(これが萩窪用水であろう)、萩窪用水散策コース、萬松院への
分岐のT字路のちょっと入った場所で道祖神も一緒にあった。
残念ながら塚の痕跡らしきものは全く有りません。
石柱の周りの石垣が一里塚の名残か…?
ここ風祭の一里塚は江戸より21番目の一里塚である。
散策コースの看板を見ながら、一里塚跡を見落としていたのにはガッカリ、30分のロス
である。
再び、入生田の紹太寺に戻る、このお寺も往時はかなり大きなの規模の寺であったようだ。
小田原城主稲葉美濃守正則が父の菩提寺として寛栄12年(1635)小田原宿内の山角町に創建し、
祖母の春日局の法号から紹太寺と名付けた。
寛文9年(1669)に現在の地、入生田村に移し長興山紹太寺とした、臨斎宗妙心寺派の寺で仏殿
、禅堂、斎堂、開山堂、御霊屋、経蔵、寺院、鐘楼など七堂伽藍の整った一大寺院であった。
しかしながら相次ぐ火災で現在の規模になったとのこと。左手には山門の土台石が残っ
ており、その規模が想像されます。
また、この寺はしだれ桜が有名です。
【相模国風土記】入生田村:江戸より行程21里6町、民戸30、東西6町8間、南北2町50間
参道の左に子院の清雲院があり、唯一焼けなかった建物のようです。
また、清雲院の左の「松樹王」の銘石は風祭と入生田の境にあった紹太寺の寺領を示す
境石で、このような石が七ヶ所有ったとのことです。
坂を上がっていくと石段があり、本堂までは20分とのこと、この先の時間を考えると
本堂までは無理と判断し、街道に戻った。
途中コンビニで昼食の「おにぎり3つ」と飲料を購入・・・・。
街道は再び国道1号線と合流、湯本に入る。歩道は車道より3m位上に有り、山崎I.Cで歩道橋
となり国道をまたぎ、下に降りる、左手に早川が見え、三枚橋となる。
直進する道が七湯道で、すぐ先に箱根湯元駅がある…。
旧東海道は左折し三枚橋を渡る。幸いにも橋を渡ったのは自分一人であった。
例のツデーウォーク…は直進、湯元へ向かうのか?・・・・
【相模国風土記】湯本村:江戸より行程21里34町、家数76、東西26町、南北5町
三枚橋:土橋、元は板橋なり、長22間、幅1丈余、橋辺、茶店軒を連ねり、湯本細工及び
米饅頭をひさげり(売る)、橋を過れば道次第に険しい山道となり、往来困難なり
幕末の三枚橋の写真(上)を見ると、当時は湯元に向かう道も橋を渡ってから分かれるような感じで
ある(川の右側は山が迫り道が無いような感じ...)。
さて、現在の三枚橋を渡りすぐ右手に道祖神がある、道路は右にカーブし、急な上り坂となる。
息を切らせながら上っていくと、左手に湯元郵便局そして右手に湯元小学校が見え、
その上にこんもりと木が生えている場所が有った。
近づくと立派な山門があり、それが小田原北条氏の菩提寺、
早雲寺であった。
寺には北条五代の墓があり、また県の重要文化財の萱葺の鐘楼があり、しっとりと
落ち着いた寺であった。有名な寺の割りには見学の人も少なかった事に驚いた。
京都、鎌倉ならば当然のことながら高い拝観料を取るとこであろう。
早雲寺を出て坂を上っていくと左手に正眼寺が見える。本堂の裏手の墓地の上に地蔵堂
と石仏がある、元々湯本地蔵堂で有名で鎌倉初期に建立、明治元年の戦火で焼失、当時の
ものはここの石仏、石塔のみのようだ。
曽我兄弟のゆかりの寺でもある。
正眼寺をでてまもなく右手に双体の道祖神が有る、湯本茶屋村の境の道祖神だ、大磯〜
二宮で見慣れているので特別の感は無かった。
(双体道祖神:男女の神が体を寄せ、手を取り合いその睦まじさを示すことによって悪
霊が村に入ってこないように念を立てたもの)
【相模国風土記】湯本茶屋村:江戸より行程22里、家数27、東西10町許、南北20町程
東海道の往還係れり、幅4間、当所立場にて下は風祭村立場、上は畑宿立場へ各1里、休憩の茶
舗(ちゃみせ)あれば村名となれり 産物:山生魚一里塚:海道の西辺、左右に並、榎樹あり
囲6尺5寸ほど、東方は風祭村、西方畑宿の一里塚に続けり
観音坂:海道の西方に在、登り2町許、此辺を字古堂と唱ふ、古観音堂ありし故の名と
云う、板橋村の伝には村内地蔵堂、昔当所にあり、故に古堂のありしと云
槍突石:往還西の方に在り、大さ1間余、石上に曾我五郎、槍にて突きしと云痕あり
そのすぐ右、静勧荘の隣に一里塚跡があった。そこから道路が狭くなり、車の交差がよ
うやくできる程度であった。
狭い道を歩いて行くと左手に東海道石畳の標柱があり、旧道は急坂で下の沢の方に続いて
いた。(猿沢石畳)
降り口の湯本茶屋公民館の前に石造りの馬の水飲み用の桶があった。
箱根を行き来していた馬子が立場のここ湯本茶屋で休憩し、馬にこの水桶で水を飲ませた
のであろう。
しかし、左手は山の斜面、右手は沢で立場としての平地は殆ど無く、どの程度の大きさの
立場だったのだろうか…?
坂を下っていくとすぐ舗装が切れ石畳になった。道は右にカーブし、沢を渡り上り坂となる
坂を上りきると現在の道路と合流する。
この辺が観音坂である。
短いが初めての石畳の街道に若干感動…感想は山の公園の遊歩道みたいな感じを受けた。
それにしてもこんな狭い道を、本当に籠や馬が交差したのだろうか?
舗装道路のすぐ右下の急斜面の途中に福寿院があり、本堂の更に下に「また木なで観音」
が有った。(インドの修行僧の修行に由来するもので昭和のものであった。)
眼下には須雲川と公園だろうか、綺麗な芝が望めた。急な階段を登り街道に復帰、右手下
に須雲川、温泉ホテルを望みながら歩く、きちんとした舗装道路にもかかわらず、驚く程
車の通りは少ない。
温泉街への右に下る道路を過ぎると街道は上り坂となり、除々に急坂となる。
坂の途中右手に葛原坂(くずはらざか)の看板が有った。
【相模国風土記】葛原坂:海道中須雲川村堺にあり、登一町許
葛原坂を登りきる手前の資材置き場で昼食を摂った。
再び街道に復帰、ここに来て、時々リュックをしょったハイカーが街道を下って来るも上り
は自分1人であった。
【相模国風土記】須雲川村:江戸より行程22里24町村名古は箕作と唱う、箕を造るを
以て生産となせり、民戸23、東西14町余、南北1里余 戸数30
女転シ坂:海道中の西方にあり登り1町余、昔婦人駅馬に乗り、此にて落馬す故に
此名ありしと云う
割石坂:是も海道中にて畑宿の境にあり、登り1町、路傍に一巨石あり、長4尺、横3
尺、厚さ5寸許、相伝ふ、曾我五郎時致、富士野に参り向ふ時、此坂にて帯刀の利鈍を試ん
とて斬割れる石なり、其半片は渓間に落しとなり
滝一は城山の半腹にあり、忍ヶ瀧と云、一は乾瀧と云
坂を上り切ったところに須雲川IC(はつはな)が有り、そこからは下り坂となる。
坂の途中の左手にかなり風化した道祖神があった。正面の箱根の山並みの紅葉が美しい
小さな集落を過ぎ、左手に神社を見て、街道はゆるい上り坂となるところのすぐ左手に
滝がある。雲泉の瀧だ、そのすぐ上が鎖雲寺(初花寺)で浄瑠璃「箱根権現霊験記」に
由来する寺である。
兄の仇敵を探しているうちに、足が不自由(いざり)になった夫と、それを支えつ
つ旅を続けた妻、初花の物語で、滝で仇敵に遭った時、箱根権現の加護により、夫の足が治
り仇討ちを果たした。その二人の墓がある。
鎖雲寺は寺というより普通の民家のようであった。
鎖雲寺を過ぎると、上り坂は大きく右にカーブし、須雲川を渡るが、その手前の左手に自然
遊歩道の入り口があり、女転し坂の道標が有った。
説明によると女転し坂は橋を渡った左手に有ったらしいが、崩落して今は通行できないとの
事だ…。
橋を渡りすぐに街道は大きく右にカーブするが、その右手前のガードレールの外側に弘法大師
のイボ取り水が有った。注意しないと見逃しそうな所であった。
その先の街道は上り坂のヘアピンカーブとなっており、かなりの急坂である。旧道はおそらく
現在の道路の下を通っていたのだろう、途中道路に湧き水?が側溝から溢れ出ていた。
幕末のベアトの写真集に箱根の写真があり(上)、その地形から女転し坂の手前の須雲川に
架かる橋の写真と思われるが、現在の旧道と比べ、道幅も広く石畳もしっかりしている事に
驚かされる。(もう1枚は女転し坂の上か橿木坂(かしのき)の上と思われるがここも広い....
ベアトも、疲れて休み写真を撮ったのだろう。
薄暗い坂道を歩いて行くと、発電所前のバス停があり、そのすぐ右手に「割り石坂」の石畳の
入り口があった。

割石坂の由来は曾我 五郎が富士の裾野に仇討ちに向う時、腰の刀の切れ味を試そうと
路傍の巨石を真二つに切り割った所とのことである……。
石畳は江戸時代のものと、近年の整備による石畳があり、江戸期のものは近年のもとの比較して
角が取れている感じがした。
割り石坂の出口付近には接待茶屋があったとの説明板があった。平坦な土地が無いのに…何処に
建物があったのだろう?....
【接待茶屋 説明文より】:江戸後期、箱根権現の別当如実は箱根八里を往還する旅人や
馬に湯茶や飼葉を施し、大変喜ばれていましたが、資金が続かず行き詰まってしまいました。
如実は江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て、施行の断続を幕府に願い出、文政7年(1824)
ようやく許可がおりました。
再開にあたって新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが2ヶ所とも立場である
ため許可されず東坂には割石坂に西坂は施行平に設置されました。
【相模国風土記】施行所:割石坂に有り、文政七年江戸呉服町の商人、加瀬屋友七なるもの
、人夫、駅馬、険路ばっしょうの労苦を憩しめんが為に、施行所を建、間口六間、奥行四間、屋後
別に小座敷あり....

割石坂を出て程なく左手に箱根旧街道の石碑が右手に見える。
石碑の先は本当に旧街道か?と思うような短いが、急な坂が下の沢へと続いている。
倒木もあり、徒歩であれば理解できるが馬では通行困難と思われる道が沢の橋を渡るまで続く。
沢には大沢川が流れ、千鳥橋を渡ると再び石畳が現われ、要約街道らしくなる(狭いが…)
これが大沢坂である。
風土記では千鳥橋は欄干のある石橋であるが現在は丸木橋…昔は今より道は整備されていたのか?
大沢坂の案内板には当時の石畳の道が一番良く残っているとある。
【相模国風土記】千鳥橋:大沢川に架す、長幅各2間、古は土橋なり、寛政10年石橋
となり、欄干あり、領主の修理なり
幕末の下田奉行 小笠原長保の【甲申旅日記】:大沢坂は
座頭転ばしとも云うとぞ、このあたりのつつじ盛んにて趣殊によし....
坂の出口付近の左手に古ぼけた墓地があった。
大沢坂を上り切る出口の坂もかなりの急坂で左右に木が迫りなお一層狭く感じる。

坂を上り切った所は国道のカーブの所である。
国道に出ですぐ前方に畑宿のバス停と、畑宿本陣茗荷屋の標柱が目に入った。
ガイドブックにも有るが、山間から流れ出る水を利用した庭はそこそこであった。
街道に戻り、先に進むと「畑の茶屋」があり、バス停には大勢の人がバスを待っていた。
ここまで徒歩で下り、バスで帰る人であろう。
その茶屋の手前の高台に松の木が有り、その下に畑宿の庚申塚が有った。
道はバス停から大きく右にカーブし登り坂となるが、旧道はそのまま進む。
茶屋があり、さらに進むと木々に囲まれた大きな広場が有り、小山が二つ有った。
これが畑宿一里塚、江戸から23番目の塚だ。
品濃の一里塚より小さいようであるが、整備、復元され美しい一里塚である。
右の塚には樅(もみ)、左の塚には欅(けやき)を植えてある。
【相模国風土記】畑宿村:江戸より行程24里、此地は東海道中の立場にて湯本茶
屋へ1里、箱根宿へ1里8町、民戸連住し、宿駅の如し家数43 東西23町、南北18町余....
当所も正月松に替へて樒(しきみ)を立り
名主畑右衛門、字号を茗荷屋と称す、湯本細工、挽物(ろくろ細工)、塗物類をひさぐ(売る)
一里塚:西海子坂の下、海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、西は
箱根宿の一里塚に続けり....
西海子坂:宿外西の方にあり、以下次第にして箱根宿に至、
登り二町許(ばかり)、路傍に一巨石あり、沓掛石と云、方九尺、此坂山中第一の険しさ
にして、壁立するが如く、岩角をよじ登るべし、一歩も謹(つつしま)ざれば千尋の岩底
におとしいれり、かしのき坂、猿滑坂ときびしい坂が続く…
一里塚を過ぎると旧東海道は再び石畳となり、箱根新道の上を通る。「宙吊り東海道」というそ
うで、旧道の雰囲気を全く損なわないように配慮した道路で、実際に通ると不思議な感じだ。
この坂が西海子坂でこの石畳を抜け舗装した一般道に出ると七曲がりとなる。
舗装した道路をクネクネと歩くのだが、かなり厳しい坂で、極めつけは見晴茶屋まで階段で登る
橿木坂(かしのき)である。
階段の一段一段が高い性もあるが、息も絶え絶えで非常につらい坂である。
昔は階段など当然ないはず.....どんな急坂であったのか、想像すら出来ない....。
見晴茶屋の跡がある所が「樫の木平」で馬子唄に「ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」
とある。
ここから望む相模湾の景色は苦労もあってか、絶景であつた。
【東海道名所日記】橿木坂(かしのき):険しきこと、道中一番の難所なり、おとこ
、かくぞよみける。
橿の木の さかを こゆれば くるしくて どんぐり程の 涙こぼる
見晴茶屋から更に上り坂を歩いて行くと歩道の下に旧道らしき道が見える。
200m程上った所で、どうしても納得できず、来た道を戻り、舗装道路から左に下る道へと進んだ。
途中、沢の橋(甘酒橋)があり、しばらくは起伏も少なく、落ち着いた雰囲気の道であった。
その道と国道との合流点の前後がまたまた急坂で(猿滑坂)国道をまたぐ横断歩道橋からは更に
急な階段となる。樫木坂での疲労が残り、階段の手摺をつかみようやく上った。
階段をようやく上り切ると街道は右にカーブし、親鸞上人遺跡碑のある追込坂となる。
東国の教化を終えて帰路4人の弟子と上人がここで師弟の別れをした場所である。
ここまで来てようやくゆるい坂道となり、大平の茶屋(甘酒茶屋)が目前に見える。
【相模国風土記】猿滑坂:殊に危険、猿、猪といえどもたやすく登り得ずよりて名とす
追込坂:登2町半余
甘酒茶屋を過ぎると、旧道は国道と合流し、緩やかなカーブの登り坂を上る、右手に林の中を通る
自然遊歩道がある。
しばらく行くと左手に旧東海道の立て看板が見える。先はうっそうとした林の中の道で薄暗い。
白水坂である。この坂も石畳が残っている。
更に進むと、道幅は広いが急坂の石がゴロゴロした坂にでる、かなりきつい坂である。
ここが天ヶ石坂であった。
この坂を過ぎるとようやく下り坂となった。
下り坂はあまり整備されていないのか、石がゴロゴロあったり、倒木があったり歩きにくかった。
権現坂である。途中、箱根八里の石碑があり、そこからさらに下ると舗装道路と交差する十字路が
ある。
その道路が鎌倉時代の東海道である湯坂道との説明書があり、路傍には六道地蔵道標があった。
これは東海道分間延絵図にもある。
そこからはかなりの急坂で小走りで坂を下る感じ…芦ノ湖にむけ一気に下る。
【相模国風土記】大平:危い石段数箇所をよじ登り、此地に至りて地勢平坦なり、
故に此名あり、ここに甘酒を売る茅(かや)店五あり、土俗、甘酒小屋と云、山中所々
にて是をひさげり(売る)
於玉坂:登2町半余 白水坂:登12間余 天ヶ石坂:登7間余、坂側に
一巨石あり、方8尺余、天ヶ石と云う 天蓋石の訛なり 其形、天蓋に似なればなり、此所
箱根宿の界にて山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり
瀧坂芦ノ湯道にあり、坂側に瀧り、幅3尺、高1丈源は芦野湯より出、流末は大沢川に入
権現坂:海道中東の方にて箱根宿権現社地の前にあり、一に八町坂と云、畑宿界天ヶ石より
西へ降る坂にて長八町」あり、故に名づく
向坂:芦川町の西にありここより次第に西行して挟石坂に至る、坂路頗(すこぶる)
峻險にて老杉左右に並列し晴陰をいはず、常に畑霧多く咫尺(しじゃく)を弁ぜざる時あり
挟石坂:此坂を陟り盡して地勢漸く開く傍示杭2本あり、一は豆相二州の分界を標し
一は御料と小田原領を分る傍示なり
権現坂を下り、元箱根に到着すると、旧街道は急に狭く(2m程)なる、右下に舗装した道路が
見えるが、すぐはその道に出られない。
舗装道路にでて、まもなく旧東海道の杉並木がある、更に歩道の無い道路を西に向かう
10:15小田原駅を出発、殆ど休まず、歩き続け15:20元箱根に到着。
日地没までの時間を考え、元箱根から帰ろうとバスターミナルまで行ってビックリ!
休日ともあって、小田原方面は人の山.....人のいない三島駅行きの乗った。
次回歩くコースを通るバスである。
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