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ぐみやうし道2
保土ヶ谷宿にある金沢道標4基の1つに「かなさわ かまくら道」「ぐめうし道」天和2年
(1682年)と刻まれた道標が有る。
この道をいつかたどって見ようと思いつつなかなか歩けなかったが、ようやく歩く事ができた。
ちなみに「かなさわ道」ではなく「ぐめうし道」である。
東海道保土ヶ谷宿の金沢道標を左折、JR東海道の踏み切りを渡ると国道1号線の向こうに
政子の井戸の立て札がたっている。
車は進入禁止の狭い坂道である。
この坂が石難坂(石名坂)と呼ばれた坂である。
坂を上って行くとすぐ左手に福聚禅寺の山門が見える。
山門の右手に地蔵堂があった。
福聚禅寺から更に坂を上って行くと右手に「政子の井戸」が見えるが、その手前の左手に
苔むした、石段がある。
木が覆いかぶさって上に何があるか解らないが、入って見る事にした。
リュックを下ろし、石段をよっんばいになって登っていくと正面に荒れ果てた地蔵堂が...
右脇には崩れた石仏や傾いた庚申が有った。(明和5年、宝永8年、元禄5年、元禄8年、
元禄7年と刻まれている)
あちこちの地蔵を見たが、こんなに荒れ果てた地蔵を見たのは始めてである。
横浜市は何をやっているいるのだろうか?(ここは私有地なのか?)
宗教が絡む?ものは文化財として手を付けられないのだろうか?
何か寂しい物を感じた....。
残念ながら手を合わせてその場を後にした。
地蔵のすぐ斜め前が御所台の井戸(政子の井戸)であった。
この井戸は源頼朝の妻、政子がここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと
伝えれれ、「御所台(みしょだい)の井戸とよばれている。
また、江戸時代、将軍が保土ヶ谷宿の苅部本陣で休息した時、御前水としてこの井戸の水を使用
したと伝えられているそうである。
政子の井戸から坂道は一段と急になり、右にカーブしながら「清風高校」の脇を上っていく。
坂を上りきると左手に高校のグランド、正面に信号機が見える。
その信号のすぐ脇に「北向地蔵」がある。
僧三舉伝入が享保2年(1717)に旅人の道中安全を祈願して建立したもので、角柱に
是より左の方かなさわ道 是より右の方くめう寺道と刻まれている。
言い伝えでは、この地蔵の向きを変えてもいつの間にか北を向くことから「北向地蔵」
と呼ばれる

この地蔵は道標を兼ね、左の「かなさわ道」を行くと尾根道を通り南大田に下る。
今回、弘明寺道を歩くに当たり、色々資料を探して見たが、残念ながら見つけられなかった。
そこで、いつもの通り地図を見ながら古道を推理しながらの歩きとなる...。
とにかく、弘明寺道であるから、地蔵に刻まれた通り、右に進む.....。
地蔵の右の道を道なりに行くと、保土ヶ谷から井土ヶ谷に抜ける道である「井土ヶ谷切通し」
とよばれる道に出る、当然のことながらこんな道は昔は無かった....ハズ...。
有ったとしても、坂を下り、切通しの道をまた上り、井土ヶ谷に抜けるハズが無い。
(遠回りで、無駄...)
色々考えたが急坂を下り、井土ヶ谷2丁目当たりに出るのは間違いないだろうと想定し、地図の
赤い点線を歩く事にした。(コースから見れば青い点線かも....)
下の道まで下って来ると、現在の切通しの道と合流するが、この道とほぼ平衡する形で井土ヶ谷
までの道が南側にある。
道のカーブの状態を見ると明らかに旧道の感がある。
その道を歩く事とした、想定した道の右手は山で山の裾野を通る形となる。
途中、庚申でもと期待したが残念ながら、旧道(古道の)根拠となるものは発見できなかった。
道はゆるやかな下り坂となっていた。
その後、図書館で明治15年測量の保土ヶ谷付近の地図を見っけ、調べた結果、北向地蔵から分かれ
た道は、ほぼ今回歩いたコースで急坂を下り、永田の南の山裾沿いの道に続く事が解った。
当時はまだ東海道本線(線路)も無く、江戸期の道がまだ残っているハズ....間違いないだろう。
また、新編武蔵国風土記稿の永田村、井土ヶ谷村の項の道の記述からもつじつまの合うものである。
【新編武蔵国風土記稿】永田村:永田村は郡の西の方に少しく南よりにあり、小机庄とも唱し由、
今は其名を失えり....江戸より八里半の行程なり....
東は太田、井土ヶ谷の二村に接し、南は引越村、北は橘樹郡保土ヶ谷宿に交り、西は相州鎌倉郡平戸村
に続けり......東西十一丁、南北十三丁、地形高低ありて田畑相半せり、民戸五十七軒.....
村内、保土ヶ谷宿より井土ヶ谷、引越両村の境に達する路あり
【新編武蔵国風土記稿】井土ヶ谷村:井土ヶ谷村は郡の西方にあり、多々郷小机庄に属す、
古くは当村及弘明寺、中里、最戸、久保五村を通じて多々久郷と唱ふ、此地殊に地窪なるゆへ井土ヶ谷
の名起りしと云、或云、鎌倉将軍時代村内に清冽の井二ありし故、村名起りしと......
東西十丁、南北五丁許、東は大岡川に添いて、対岸は蒔田村、西は永田村に接し、南は弘明寺村、
北は太田村に隣れり、地形平行にして....水田多く陸田少し、引越村の溜井を引用水とす....
民家四十七、外長吏小屋五、村内三條の道あり、一は北の方より東に通ず、是金沢道なり、
村にかかること四丁許、幅二間余、一は鎌倉道と云、是も北より入て南に達す、
村内を通ること七八丁、幅二間許、一は小径なり、南より入り西の方に達す長さ四丁許、幅九尺程....
住吉社:乗蓮寺御朱印地の内にあり、山上に社あり、前に石段八十五段を設し、中腹に石鳥居を立、
本社に七尺に八尺、上屋三間んに四間巽向.....
太神宮:是も乗蓮寺御朱印地の内にあり、ここも山上にて前の住吉より一層高く....
末社稲荷社、秋葉社、十二天社....
乗蓮寺:永田村の境にあり......
地蔵堂:永田村の境にあり、日限地蔵と号す....
坂を下りきると、正面に京急のガードが見える。
左手が井土ヶ谷の駅のようだ。
ガードをくぐると道はほぼ90°に右に折れる。
右手には京急の高架があり、その向こうは山である。
この道はズーット山裾に沿って続いている....。
道は相変わらず狭く、昔の幅そのままと言う感じがする。
道なりに歩いていくと京急の線路が正面に見えるが、その手前の青いトタンの物置き?の
所に道標を兼ねた庚申があった。
「左くミやうし道」と有る 年代は正徳4年 左の庚申は寛政8年 「右保土ヶ谷」とある。
このまま道なりに行くと、次の目的地である乗蓮寺へは遠回りのような気がする。
庚申の手前を左に入るのかも知れない...。
考えられる2つのルートを歩いてみたが古道の面影は全く無く、解らなかった。
新編武蔵国風土記稿の井土ヶ谷村の項に乗蓮寺に永田村の境にありとある。
また乗蓮寺に属する寺社の多さ、御朱印地の記載から当時は規模の大きな寺であり、敷地が
現在の場所から更に北西の京急の線路のそばまで有ったのでは無いだろうか、そして本堂は
永田村の境に有ったのでは....。
そうなると庚申兼道標の位置も納得がいくのであるが....
現在は乗蓮寺に隣り合い住吉神社がある。
覗いて見ると境内の右に庚申と板碑そして道標らしきものが有ったが風化が激しく刻まれた
文字は読み取ることが出来なかった。
この道標は掲示板での「まや」さんから情報による物ですが...それによると、井土ヶ谷上町
23−5に埋まっていたのを掘り出して移動したそうだ。
「まや」さんは「これより南く○や○し」「これより東海○新・・・」正面に一部に「常福寺」
と読める気がするとの事....
位置関係からすれば、北向地蔵からの尾根道を通り、南太田の大光寺に下った「かねさわ道」は
ここで直進する「かねさわ道」と右の「弘明寺への道」と分かれるが、分かれた弘明寺への
道の道沿いに置かれた道標ではないだろうか?
すなわち大光寺にある石仏を兼ねた道標(右面 かねさハ かまくら道 享和2年)と、未確認だが
井土ヶ谷下町32の庚申(道標 是よりくみやうし道 )、そしてこの住吉神社の道標(井土ヶ谷上町
23−5に有ったという)と、繋がるのでは....
住吉神社あたりには、北向地蔵からの「弘明寺道」と大光寺を通る「金沢道」から「弘明寺道」を結ぶ
道の三叉路が有ったのだ。(弘明寺通り金沢道)
実はこのことは新編武蔵国風土記稿にも記述されていた...風土記稿を読むと井戸が谷村の北から南
に通じる「鎌倉道」が有る事
そして、弘明寺村の項には井土ヶ谷村〜弘明寺村〜中里村を通る「弘明寺通り金沢道」が有り、
その道は戸部村〜太田村(大光寺)を通る道と井土ヶ谷村と弘明寺村の境で合流すると記述されている。
即ち、北向地蔵からの鎌倉道は井土ヶ谷の北から南を通りその道は現西戸部からの道と井土ヶ谷で
合流する。(西戸部からの道は途中太田で金澤道を横切る...)
そうして、弘明寺を経て中里へ続くこの道を「弘明寺通り金沢道」と呼んだらしい事が解る。
住吉神社の脇に乗蓮寺が有り、その裏手は山となって続いている。
乗蓮寺は北条政子由来の寺であるが今は鉄筋の寺となり、往時の面影は全く無かった。
山門の右手には横浜市の銘木である大きな「カヤ」の木が有った。
また境内には古そうな石仏があり、元禄14年、享保10年の銘があった。
北条時政の長女であり、源頼朝の妻でもある北条政子は、3代将軍源実朝(政子の子)の死後、
尼将軍として幕府の実権を握った。乗蓮寺は、政子の化粧料としての領地であり、そこに建て
られた乗蓮寺の尼将軍御影堂には政子像などが安置されている。
政子が実朝を出産したとき、乳が出ず、この寺に祈願したところ乳が出たと伝えられる。
また、堂前の榧(かや)の大木の実を煎じて飲むと乳の出がよくなるともいわれ、乳の出る守護神
としても知られている。
※化粧料―武士間の婚姻に際して嫁が持参する田地。畑、山林の場合もあり、女性がその権利を
保持する。
乗蓮寺を出ると、道は左手の山の裾に沿って続く、途中、横浜南中学で寸断され、迂回する形と
なるが、昔から乗蓮寺が今の場所に有ったとしたら、道は、昔は真直ぐだったのでは....。
迂回した道は京急の線路にぶつかり線路沿いに京急「弘明寺駅」まで続く。
さてここで前回、武相国境の道で京急弘明寺駅の向こうに尾道が続いているようだと記述したが、
ここの京急の線路沿いの道を左に入り、尾根の道の存在を確認してみる事とした。
山全体が、しっかり区画された宅地ではなく、複雑に入り組んでおり、残念ながらはっきりした
尾根の道は確認できなかったが、間違いなく住吉神社に尾根が繋がっていることは解った。
鎌倉時代は山裾の道ではなく、住吉神社からの尾根の道が弘明寺の裏を通り武相国境の道に
繋がっていたのではないだろうか?
新編武蔵風土記稿に、住吉神社について「山上に社あり...前に石段百八段を設く。中腹に石鳥居を立つ村の鎮守
なり」とある。
鎌倉の古道が山の頂上の神社を通り、尾根道を通っていた....十分考えられる!
残念ながら証拠となるものはないのだが.....。
【新編武蔵国風土記稿】弘明寺村:弘明寺村は郷庄の名前に同じ、江戸より九里の行程なり、
此辺古は井土ヶ谷村の内の隷せしが中古、井土ヶ谷の地を分て数村とせしとき、この村、弘明寺観音
梵刹ありしによりかく名でける
村の四至東は大岡川を隔て、下大岡村に接し、西は引越村、南は中里村、日田は井土ヶ谷村なり、
東西二丁、南北四丁許
村中往来二道あり、一は井土ヶ谷村より中里村の方に達す、村に係ること同六丁、これを弘明寺村
通り金澤道と云、又一は東の方、戸部村より井土ヶ谷村の堺にて前の道に合す
往還より東は水田にて西は村内大塚山、天神山、はら山、大丸山など云山々相連れり、山下に民家十八
軒あり.....
もとより水利の便宜あらざれば旱損あり、されど久霖暴雨等の時は大岡川溢れ動もすれば水損もあり
.....
その他の庚申(道標)六ツ川1-87(昔の引越村)
の庚申 是より右くミやうし道 安永5年 とある。
【新編武蔵国風土記稿】引越村:引越村は郡の西相州堺にあり、多々郷小机庄に属す.....
多々郷と唱へ一郷なりしが、其後かし五ヶ村に分れし時、其村々の民、引越して一村をなしたれば
この名ありといふ....村の広狭、東西三十丁、南北二十三丁 四隣、東は山を隔て弘明寺村、南は
山を堺て中里村、北は永田村にして、西は峰を堺て相模国鎌倉郡平戸、永谷中の二村あり.....
村内一條の道あり、井土ヶ谷、永田村の堺より入り、村内で二條に分れ一は中里村の辺に至り、
一は保土ヶ谷宿の方に達す、村を経る事三十丁許、幅九尺程
その後、図書館にて、明治15年測量の地図を見つけたので、現在の地図と対比してみた。
その結果が下記の地図である。
それを見ると、新編武蔵国風土記稿に記述された江戸期の道がはっきりと裏づけされる。
残念ながら、住吉神社から弘明寺の裏山を通る道は記載されていなく、私の推測の裏づけは
得られなかったが、「弘明寺村通り金沢道」は大岡川のすぐ脇を通っている。
大岡川は昔から度々氾濫を繰り返す川であった事を考えると、鎌倉時代の道は弘明寺の裏を
通っていた可能性は大ではないだろうか?
まあ、道標からも江戸時代には大岡川沿いの道が主要道であったのは間違いないようだが....
また、マヤさんからの住吉神社の道標の位置も見事に一致する。
(地図がはっきりしない場合はファイルに落として表示してみて下さい。)
また、未確認だった井土ヶ谷下町32の庚申も確認できたのでupします。
蒔田橋の手前すぐにあり、そこは何と「井土ヶ谷事件跡」でもありました。
庚申の右面には「是よりくみやうし道 鎌倉道 尼将軍御影塔六丁」左面には
「北ほとかや 南 かねさわ」裏面には「元禄2年造立 天保12年再建 聖堂領 井土谷村」
と刻まれている。
フランス士官たちは居留区から弘明寺にでも行く途中に事件に有ったのだろうか?
井土ヶ谷事件の詳細はこちらへ
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