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ぐみやうし道
戸塚宿からの「かまくら道」を歩き、いたち川に架かる新橋のたもとに有った元禄4年の道標に刻まれた
「くめやうし道」?に興味をいだき調べて行くと「くめやうし」ではなく「ぐみやうし」即ち
「弘明寺」である事が解りました。
「弘明寺道」に関するホームページは無く、図書館で調べた昭和50年代の本、「かながわの古道」
阿部 正道著 かもめ文庫 が唯一の文献でした。
それを基に鎌倉古道である「弘明寺道」を歩いて見ました。
但し、「かながわの古道」は保土ヶ谷から新橋のコースを記述しており、今回歩いたコースとは逆
となっている。
ちなみにこのコースは次のような物である。
保土ヶ谷(帷子町)→御所台の水→北向地蔵→乗蓮時→弘明寺→中里→餅井坂→
南区大久保→南高校
南高校から2つにルートに分かれれ
No.1 南高校→永作台の上→馬洗川→永谷天神の背後→日限地蔵→日限小学校→
小菅ヶ谷小学校→本郷台西方→新橋
No.2 南高校→迎陽トンネル→日野南小学校→小菅ヶ谷、宿の谷→本郷台西方→新橋
その後、色々な文献を調査した結果、今回歩いた道は鎌倉古道の「鎌倉中の道」であり、日限小学校
から分岐し、「鎌倉下の道」で有る事が解った。
この「鎌倉下の道」も、年代とともに変移し、いくつか有る様である...。
神奈川県南区の京浜急行の駅名でもある「弘明寺」は言い伝えによると養老
年(721)の開創でその17年後の天平9年(737)に行基が現在の場所に草庵をつくり、観音像を彫り
安置したのが始まりとの事である。
鎌倉時代には吾妻鏡にも記載されているように源家累代の祈願所とされ、北条政子も幾度となく
参詣したとの事である。
江戸時代に入ると坂東観音三十三ケ所の第14番札所として賑わい年2回の市が立つ程であったとある。
このころに立てられた道標が各地に残っている物であろう…。
鎌倉から戸塚に抜ける道である「かまくら道」を歩いてきて、小菅ヶ谷の「いたち川」に架かる
新橋(にいばし)を渡り、すぐの交差点の右手に延命地蔵と道標がある。
道標には「従是とつかみち」「従是ぐミやうじ道」元禄4年(1692)と刻まれている。
ここを右に入る道が鎌倉道の「下の道」であり、「弘明寺道」である。
この道は鎌倉古道として相模風土記にも記述がある。
【相模国風土記稿】小菅谷村:江戸より行程12里 民戸79 広6町余 袤26町余
東、鍛冶ヶ谷、上野庭二村 西、飯島、下倉田二村 南、笠間、桂二村 北、永谷村
鎌倉道西南の方を通ず、幅2間より2間半に至る、又古道と称するあり、南方笠間村界にて今の道
より北に折れ村の中央を貫き、永谷ヶ村に達す、幅6尺より9尺に至る。
按ずるに正保の国圖には此道を本道とす。
高札場:猪鼻、青婁ヶ橋、つのがた… いたち川、南界を流る、幅4,5間
兼好法師「いかにわが立ちにし日よりちりのいて風だに寝やをはらはざるらん」
鎌倉古道の係る所を架す、長さ6件、新橋と昌う。
新橋の道標を右に入り200m程歩くと西本郷小があり、前に小菅谷の「力石」が有った。
石には三十〆目(30貫目:112.5kg)と彫られていた、説明文によると江戸末期、村の若者の力比べに
使われていたものとの事であった。
その先は車が交差できないくらいの道幅となり、左手に馬頭観音(文久3年(1864))、庚申塚(明和元年(1764))、
地蔵が有った。
その先で再び道幅は広くなる。
先に進みJR根岸線の高架の下をくぐって、有海工業の前の小さな交差点の隅に「くミやうし道」
の道標が有った。
道標には「庚申供養 同行六人 正徳5年(1715)」と刻まれていた。
道標の先は小山でゴルフ練習場がある。道はそこで行き止まりとなっているが、練習場の右手を迂回する
人にみが通れる山道が有った。(昔、この辺一帯を追上と呼んでいた。)
坂道を上り切ると本郷台二丁目公園が有った。
昔は道標から真直ぐの上り坂が有ったのでは無いだろうか?
平成15年3月に「鎌倉下の道」で昔の地形図等で今回歩いた道が間違いであると訂正....
追上道標を左折ではなく直進し左にカーブする道に訂正した。(下地図参照)
追上道標は道の分岐点では無かったのだ....
ちなみにこの道は鎌倉古道の特徴である尾根沿いの道で長い上り坂である。
その先は宅地造成で区画され旧道の面影は無い、本郷台2-12からは緩やかな下り坂となり、本郷台中央公園
へと続く、公園の左右の道は下り坂で、尾根沿いの道のようでである。(住宅地のため左右の見通しが出来ないが..
ちなみに公園の交差点を左折し坂を下ると「かまくら道」貝殻坂を越えた飯島に出る。)
その先は再び上り坂となる。昔の道は恐らく緩く右にカーブしながら山の頂上付近である小菅ヶ谷小学校へ通じていたのでは
無いだろうか…?
住宅街で昔の面影を残す道祖神等は見つけられなかった。
室町時代の文明18年(1486)に北陸路から関東に入り各地を巡り、和歌や漢詩を入れた紀行文、「廻国
雑記」を著わした道興は小菅ヶ谷小学校あたりで次のように記している。
すりこばち坂といへる所にて、また俳緒歌をよみて人に見せ侍りける。
ひだるさに宿急ぐやと思うらむ、路より名のる、すりこばち坂
「かながわの古道」にこのすりこばち坂は戸塚区下倉田の西南の花立と小菅ヶ谷との境を
下る花立坂であろうと記されている。(花立坂は宅地造成で消滅、東隣には小菅ヶ谷小学校が建っている。)
坂の上の三差路には正徳5年(1716)の ぐみょうじ、とつか の道標があるとの記述がある。
この道標を探し、小学校の付近をかなりの時間、捜し歩くも見つけることは出来なかった。
後日、栄区の広報相談係にこの道標のことをメールした所、迅速な回答を頂き、区の歴史を研究している
「六人会」を紹介いただいた。その代表の方からの情報で小学校の坂を上り切った左手奥の、駐車場の隅に
道標が有ることが解った。
小学校を右手(東)に見て坂を上って行くと右手に山並みが広がる。
坂を上りきって、右手に高圧線の小山を見て、左手斜め後ろに有る、駐車場の空き地の奥に
探していた道標が有った。
道標には正面に「此方ぐめうじ道」左面「此方かまくら道」右面「此方ひろ道とつかへ」正徳2年(1712)
と刻まれている。
「とつかへ」の道は坂を下り永勝寺に続く道であろう。
「かまくら道」はここから追上道標に向かい、坂を一気に下る、それが「すりこばち坂(立花坂)」でかなり
きつい坂であったのだろう。(現在は迂回する道しかない)
その先で路は10m程下の谷?を通る環状3号線で寸断される。
先には寸断された道路の先が見える。
路を迂回して先ほど見えた道に出ると、その道は尾根沿いの道で舞岡公園まで続いてる。
道路の右手には絶景が広がっていた。(かなりの標高を感じる)
この路は尾根沿いの路であったが、小菅ヶ谷小学校の東側の坂を下った所の赤坂の交差点(西谷戸バス停)
の右手に旧鎌倉道、木曾の石仏がある。
ここは木曾と赤坂の境の辻が有った所で行路の安全を願って安置された物である。
風化が激しいが地蔵菩薩、如意輪漢音または聖観音2体が置かれている、造像年代は江戸の
元禄頃と説明文にあった。
供養塔には享保10年(1726)の銘が刻まれていた。
また江戸末期に流行った力比べのための力石が此処にもあった。
この辻の南は長光寺に、北は飛石をへて舞岡公園の山を越え上の弘明寺道と合流、
西は赤坂を上り山越えし、小菅ヶ谷小の道標を通り、「此方ひろ道」の戸塚への路に繋がった
と思われる。(個人的推測だが…)
さて、元の道に戻り尾根沿いの道を道なりに行き、もう間も無く舞岡公園という所の左手に大きな木
があり、その木の根元に道標を兼ねた庚供養塔がある。
注意しないと見逃しそうな場所だが....その供養塔には「庚申供養 元文2年9月(1737)」とあり右面に「ぐめいじへ?」
左面に「これよりかまくらミち」と刻まれている。
その先がすぐ公園で、弘明寺道は公園の東端を抜け、南舞岡小学校
の東を通り日限山小学校の脇を通り丸山台公園の上の道を通る。
この道も高台の上を通る道である。
丸山台入口の交差点で戸塚と港南台を結ぶ大きな通りを横断、西に200m位の所の丸山台第2自治会館
(丸山台3-36-23)に道標を兼ねた庚申塔がある。
右の供養塔から「左横濱道」「右切海之道」?右から2番目は「右とつかミち」「左かまくらみち」山永谷村 享保7年(1723)
右から3番目は「右かまくら」「上山下くめうし道」安永7年(1779) と刻まれている。
現在の場所から見た左右の地名の位置関係に矛盾がある事から、異なる場所に立っていた物を一箇所にまと
めたものであろう。
弘明寺道は会館から北の上り坂(山)を越え北東に下る道を通ったと思われる。
なお、この辺の山の頂上部が日限地蔵の有る所であった。
日限地蔵の前の道を下り環状2号に出る。
この付近に道祖神が有るとの事で捜し歩くも見つけることが出来ずに止むなく
永谷天満宮に向かった。
天満宮前には「天神山天満宮江之道 天明3年(1784)」の道標が有った。
また天満宮の背後は山で弘明寺道が迂回して通っている事も納得がいく。
天満宮の説明板によると明応2年(1493)に当地の領主上杉乗国(のりくに)によって造営されたとの事。
また、ここの神輿(みこし)は安永9年(1780)に造られ、徳川家治の時、老中田沼意次の紹介により
天明2年(1782)以来毎年江戸城に入り将軍に拝礼されたと伝えられる。
天満宮から見下ろすと谷沿いに環状2号線が通り、永谷という地名が地形から出ている事に納得…。
天満宮から柳橋交差点に戻り環状2号線を渡り永野小学校に向かった。
この辺の地名は「伊予殿根」といい、
【相模国風土記稿】:によると昔、天神職、伊予というもの居住せし跡なれば此の称ありと云う、
とあり、鎌倉時代の藤原乗国の城がここに有ったとの話もある。
馬洗川は環状2号の中央分を流れ殆ど目立たないが、鎌倉時代からここには柳橋があったのであろう。
環状2号からはゆるい上り坂となる。小学校前まで上ると、T字路となり、そこに道祖神がある。
道祖神には「左此方やとかまくら道とつか道 安永5年(1777)」とある。
右の面は塀で読めないが、石碑、石仏の資料によると「相州鎌倉郡永谷上半在家庚申講中 右ぐめうじ道」
と刻まれているようである。
やと:谷戸 低地、たに、低湿地、谷あい、丘に挟まれた平地
そこからさらに坂を上り歩く。右手には馬洗川の谷と丸山台の岡が見える…。
その先で道は左にカーブし、頭上を横々道路が通る、そこから下り坂となり道は大きく右にカーブし、再び
上り坂となる。
今回歩く道の中では大きく変化のある場所である。
坂を上り切った所が南高校であった。
高校の前に交差点があり、右に下る道があり、これが、後日歩く事になるもう1つの道である....。
今日は真直ぐ歩く…。
高校の敷地を過ぎると、道は下り坂となり上大岡へ一気に下る…久保坂である。
坂をかなり下った所で道を間違えた事に気付き戻る…弘明寺道は坂の途中で左に入る狭い道であった。
狭い道をチョットいくと急な下り坂となる。この坂も久保坂だろうか?
坂を下ると再び平坦な道となる、しかしながら左右を良く見ると家々に視界がさえぎられるも
谷のようになっており、道が尾根道である事が解った。
【新編武蔵国風土記稿】久保村:東西七丁、南北三丁許、東は大岡川
を限て対岸は上大岡村、西南は斜に松本村にして西は相模国鎌倉郡永谷上村、北は最戸村
に接す、地形は西の方すべて山にして相武国界なり....民戸三十四軒、東北の方最戸村より
西の方松本村に達する一條の往還は前村にいへる金沢及び鎌倉への道なり幅五六尺或いは
八九尺に至る村内を径ること四丁許
ここに記された道は江戸時代の大岡川に沿った山の下の道である。
特に最戸2丁目にある公園からの景色は尾根そのものである。
最戸2丁目あたりから道は下り坂となり餅井坂へと続く。
マンションの間を通る道を下っていくと左手の5m程下に公園があった。
これが餅井坂公園で、公園を過ぎると坂は急坂となり一気に下っていく…。
坂を下った左手の上り口の所に目当ての道標があった。
(そこは緑地帯になっていた)道標は残念ながら風化が進み刻まれた字も判読困難であった。
右手に新しい道標と説明板があり、正面に「南無阿弥陀仏 百万遍 供養塔」右面
「みなミ かまくら道 最戸村」左面「水 かみ とつかミち 下
くめやうじ道」と刻まれているとある。
「戸塚道」とは武蔵国風土記稿に「 わかれ六丁許を行って東海道に出る道あり」と記された
道であろう。
それにしても整備された現在でもかなりの坂道…昔はもっと大変な道であったのであろうと
思う。
道興が「行きつきて 見れ共みえず もちゐ坂 ただ藁靴に 足をくはせて」と詠じた
餅井坂を歩いて少しながら実感した。
大岡川に沿った道を造れば....と思うが、どうも昔の大岡川は洪水が多かったようで、
確実に道の確保できる、尾根道が造られたようである。
個人的見解だが、敵の襲撃から身を守る上でも谷道よりは尾根道の方が有利であること要因では…。
(他に保土ヶ谷の古東海道は今井川の洪水も有ってか尾根道を通っていた事実もある…)
餅井坂を下ると平坦な道が続く。
中里銀座商店街の先で京急の高架の下をくぐるが、昔の道はこの辺から左折し弘明寺公園の中を
通っていたようだが、今回は道なりに進む事にした。
【新編武蔵国風土記稿】別所村:東は大岡川を限り対岸は最戸村にして
下大岡村を少しかかれり、西は相模国鎌倉郡永谷中村に隣り、南は当郡久保村、北は
引越村、艮の方は中里村なり...民戸二十八軒....村内に往還あり、最戸村より入りて
中里村に達す、幅一間、この道の中程にわかれ六丁許を行って東海道に出る道あり、
また、最戸村と当村との堺に古の鎌倉街道というあり、其頃一里塚に植し松一株、今
に残れり....
【新編武蔵国風土記稿】中里村:多々久六ヶ村の内程の村なる故に
この唱へ起るといへり、民戸十八軒、江戸より十九里余の行程なり、
東は大岡川に限り、対岸は下大岡村、西南は別所村に接し、北は引越、弘明寺の二村
に隣れり、東西三十二丁、南北十丁余.....
久霖暴雨の時は大岡川溢て水損もあり....村内一條の往還あり、別所村より入、斜に
弘明寺村に達す、村に係ること三町なり
左手は山で山麓に沿って右に左にゆるくカーブした道が続く…しばらく歩いて行くと、左手に
大きなタブの木が有った。通常こんな立派な木の下には道祖神があったりするので期待して近づくと
横浜市の名木、古木の看板が立っていた。
その木のチョイ先を左折すると弘明寺の参道で、50m程で山門が見えた。
山門の前には「西国百番供養塔 保どがや道 文政元年」の道標があった。
山門をくぐると右手に六地蔵があり、石段を登り、本堂へ向かうも思ったほど大きな寺では無かった。
本堂でお参りして、右手の鐘楼の脇のベンチで一休みして京急「弘明寺駅」から帰宅した。
次回は弘明寺から七里堀の道を或いは保土ヶ谷への道を歩きたい…。
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