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東海道五十三次[藤沢宿]

2001/10/07歩破
藤沢は鎌倉時代から、遊行寺の門前町として栄え、1601年の藤沢宿の成立で更に大きな 発展を遂げた。門前町としてはもちろん江ノ島が約1里とそばにあったため、弁財天参拝 で、より一層、賑わいました。

【藤沢宿の規模】
本陣1軒、脇本陣1件、旅籠45軒、総家数919軒、宿内人別4,089人(男2,046、女2,043)

天保14年(1843)「東海道宿村大概帳」による
【江戸時代の名物】:大山詣、江ノ島弁財天詣

車の多い一号線を歩き原宿を越え、ようやく街道は藤沢バイパスと別かれる。
道路の歩道も良く整備され車の量も少なくなりほっとする。ゆるい下り坂が続く、鉄砲宿を 過ぎると歩道は車道より1m程高い所を歩くようになる。 緑ヶ丘に差し掛かると、右側の歩道のところに東海道松並木の碑が立っている。
数年前までこの近辺は松並木が良い状態で保存されていたとの事、それが松喰虫により殆ど 消滅したとの説明が有った。そう考えると非常に寂しい、残念な気持ちになった。今は松 以外の木が植えられ、緑が豊富になっているが…
街道の東側は大鋸町であった。
【相模国風土記稿】大鋸町:東海道の駅路、南北に貫く、幅4間余、又 南方にて東に分るる岐路あり、鎌倉道と唱ふ…

遊行寺坂(道場坂)の上まで歩き一里塚跡を探し、行ったり来たりするも結局一里塚の跡 は見っけられなかった。(後日、坂の途中に一里塚跡の標柱を見つけた…塚は西村にあり、 両方の塚とも榎が植えられていた。)
長い坂を下っていく…坂は切り通しとなっており、江戸期はもっと急な坂だったのでは ないだろうか?坂の中腹付近に、ひときわ高い松の木が有る....松を見ると街道と云う 気がする......

遊行寺坂上より
	市内を望む 一里塚跡 一里塚跡を望む 見附跡 また、この坂は道路標識では遊行寺坂となっているが、ガイドブックでは道場坂となって いる。

坂を下り遊行寺に入る手前に見附跡の標柱があった。
江戸時代の藤沢宿の写真と現在を比較してみてください。
ベアトの写真の道路両側の石垣が見附だろうと思われます。

フェリック ベアト撮影(1860年頃)藤沢宿見付 藤沢見附を望む

遊行寺山門 遊行寺のイチョウ 遊行寺本堂


【相模国風土記稿】西村:戸数73、東西5町、南北11町、東海道村の東南 を通ず、幅3間、道場坂:東海道中にあり…

見附の標柱を数m下ると、右手に遊行寺があった。境内ではノミの市が開かれていた。 定期的に開かれているようだ。また大きなイチョウの木が有った。高さ31m樹齢660年とか・・・
本堂も大きく立派な寺である。 寺を出て境川に掛かる遊行寺橋を渡る。
橋は江戸時代は大鋸板橋で、橋を渡った右手には高札が、左手には江ノ島弁財天の大鳥居とその傍ら には江ノ島道印石が有った。(浮世絵参照 鳥居の左側)

道印石のある分岐 江ノ島弁財天の道印石

この道印石とは異なるが、橋を渡って江の島方面に4〜500m行った所に「江ノ島道道印石」があり、
また、この道印石を右に行った50m程先の所に【分間延絵図】にある庚申堂も現存している。
詳しくは 「江ノ島道」を参照してください。

来た道を戻り街道に復帰し(橋を渡り右)歩く、途中紙屋の古い蔵がある。
この辺からが藤沢宿で、なんとなく街並みも建物も往時の物では無いが、宿場の雰囲気が 感じられる。



【相模国風土記稿】藤沢宿:大久保町、坂戸町、及鎌倉大鋸町を全て一宿 とし、江戸より第五の駅郵にて行程12里を隔つ、東西26町余、南北21町余、民戸878、敷内本 陣、坂戸町に一戸、脇本陣、同所に一戸、大久保町に一戸、旅舎、大13、中23、小15戸あり
東海道往還、宿内に係る事屈曲して30余町に及べり、往還中、民戸連佳する所12町17間、 道幅3間或は5間に至る。
此地、元弘3年5月 新田義貞、鎌倉を攻る時、放火あり……
大久保町 境川:幅12間、橋あり大鋸橋と呼、長12間……


更に歩いて行くと左手に郵便局があり、その前が本陣跡である。しばらく行って左側に 義経首洗い井戸の標柱が有り、マンション脇の路地を入っていくと、井戸があった。
小さな公園のようになっていたが、子供の遊び場とししては????

藤沢宿の中心付近 藤沢宿の中心付近 この辺が坂戸町であったようである。
【相模国風土記稿】坂戸町:大久保町の西…、首洗井:境外にあり、義経 の首を濯し所と云ふ…

街道に戻り、来た道を戸塚方面に戻り、左の路地に入ると永勝寺が有る。

上方見附より市内を望む 境内に入りすぐ左に古ぼけ、風化した墓石が並んでいる。墓石には小松屋源蔵の名前が 読め、藤沢宿の飯盛り女の墓であることがすぐ解った
。 再び街道に戻り、西に歩いて行くと、白幡神社へ行く十字路があり、その先からゆるい上 り坂となる。坂を登りきると伊勢山橋、この橋は小田急線をまたぐ橋である。
右手には緑豊富な小高い山が迫っている。この山が伊勢山で現在、伊勢山公園となっている。
山は引地川まで続く。藤沢バイパスは山の向こうを通っている。
伊勢山橋の先は下り坂となり、程なく道路の左側に見付跡の標柱がある。
見附先から街道の左手は鵠沼神明となっている。
【相模国風土記稿】鵠沼村:戸数258 広22町 袤28町 東海道村の北境 を通ず、幅4間 此地、松露、初茸を産せり、海岸に砲術場あり、引地川西界を流れて海に沃 ぐ、東海道に係れる処に土橋を架す、引地橋と呼ぶ…




現在ここから引地川までは特に何も見当たらない(民家の塀に道祖神が1つあるのみ)。


おしゃれ地蔵 引地川を渡ると羽島で、道は登り坂になる(引地坂)。その坂の途中左手の道端に小さな祠が あり、それが「おしゃれ地蔵」だ。脇の説明文によると
「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼を する」と伝えられている。
実際は地蔵ではなく道祖神(双体道祖神)と記されていた。

羽島付近 【相模国風土記稿】羽鳥村:戸数71 広15町余 袤6町余 村の西北の界に 東海道係る・・・・

今日は藤沢駅までと考えて家を出るも、途中がんばって大山道標のある辻堂まで....と足を伸 ばして来たが、かなり疲れてきた。
一号線との合流点にある大山道標が遠い。
重い足を引きづりながら歩く、車の通りも少なく、周りの風景と昔の東海道を想像しなが らただひたすら歩く…
長い道のりを進み、ようやく一号線との合流点が見えてきた。交差点の信号から石の道標 と祠がすぐ目に入った。右のわき道には鳥居がある。大山道道標、四谷不動に間違いない。
街道に戻り、信号が変わり、はやる気持ちで祠の前に立つ...なんともいえない感慨が沸いてきた。 祠の右の道を行き、大庭トンネルへ行く道を横切ると正面に地蔵がある。
地蔵から道は二股に分かれるが大山道は右へ続く...

四谷大山道道標 四谷大山道道標 右が大山道 四谷不動(大山道道標)説明文より
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てらていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」 、両側面に「これより大山みち」とあります。
延宝四年(1676)に江戸横山町の講中が建てたもので、堂外の物が初代の物で万冶四年 (1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町 人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。


大山道の先の地蔵 大山道は右 大山道の先の地蔵
大山道標の脇の交差点を西に渡ると小さいながら松の木が植えれてているそこが一里塚跡 であった。そこは国道より高くなっており、西側に大きな石がゴロゴロと転がっている、 一里塚を壊した時に出た石ではないだろうか…?
ここの一里塚は左には榎、右には松が植えられていたとのことである。
ここからが辻堂である。



【相模国風土記稿】辻堂村:家数131 東西25町 南北20町 西北に東海 道係る、当村に一里塚あり、又大山道あり東海道往還小名四谷より分れ右折す…南方海浜に 砲術場あり、高札場:四谷、二谷ともに海道にあり・・・・・・

二ツ家一里塚跡 ここにきて松の木もそこいらに見られようやく東海道という感じがしてきた。
更に西に50mとほど進むと右手に神社があり、その境内の国道側に庚申塚があった、歴史的に も古い庚申塚らしい。
ちょうどJR辻堂駅に最も近いポイントであるため、今日はここまでとし、辻堂駅へ向い、 駅で遅い昼食を摂り帰宅した。
二ツ家の庚申塚











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