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茅ヶ崎


2001/11/04 歩破
藤沢宿〜平塚宿の間の宿として賑わったこの地には、三つの立場がありました。 四谷(四屋)、菱沼(牡丹餅)、南湖(南郷)の各立場です。
中でも南湖の立場は茶屋町と称せられるように大きな立場でした。


東海道を歩くため、午後2時、自宅を出発、JRで辻堂駅に向かった。
昨日は、大磯宿の化粧坂での街道祭に行こうと、妻と話していたのだが、雨模様となり、 急ぎ自宅に帰った次第である。残念ながら「おいらん道中」は見れなかった。

また昨日は国府本郷の現在の旧道の1本北側の裏道を案内してもらったのだが、あちこ ちに道祖神が有り、ひょっとしたら、旧東海道は1本北の中道を直線ではなく曲がりく ねって通っていたのでは?とも思った。
午後から降り続いた雨は今日の朝方までいたが、10時頃には嘘のように晴れ上がった。

さて、辻堂駅から前回の終了地点である二ツ家に向かった。スタート時間が時間なだけ、若干 あせる、急がなければ、平塚につく頃には日没になるかもしれないのだ…
また、この時間だと、ちょうど日差しが正面から当り、写真は逆光となる…あまりいい条件 では無いことに気がついた。写真は振り返っての景色となる。
国道1号線に出る、日曜日の午後のため、上り下りとも車でいっぱいだ。 二ツ家の庚申塔を14:20スタートした。 ここの庚申塔は寛文10年(1670年)のものらしい。
右の石柱 左の石柱 大山道の入り口(伊勢原藤沢線)





小和田より藤沢方面を振返る 地蔵 道祖神 庚申塔の先を歩いて行くと信号に大山口の標識があり、両脇に 石柱(道標)が有った、右側の道標は残念ながら、かなの草書で読めない…
東海道分間延絵図の説明文にこの供養塔は絵図には無いが…「奉巡礼西国坂東秩父供養塔  享和三癸亥年二月吉日」とある。
また左の石柱には寛保二?の年号と下が土に埋まっているが常光明…の字が読めた。
【東海道分間延絵図】には二ツ谷木橋を渡りすぐ左側に供養塔「寛保二壬戌之三月」の この供養塔の記述がある。
道の入り口は狭く、昔ながらの道幅と思われるが、東海道分間延絵図にはこの道路の記述 は無い。

家に帰り、地図で見ると県道44号(伊勢原藤沢線)となっており、更に調べると二ツ谷から 北西に延る大山道と、南東に延る古道「鎌倉道」があった。
この「鎌倉道」は途中に真言宗の 宝泉寺、宝珠寺が有ったため「光明真言道」ともよばれ たようで、砥上の渡しで片瀬川を渡って竜の口に出た。
その道標が左側の常光明…の道標であった。

四ツ谷の一里塚跡あたりからズーッと小さい木だが松ノ木が植えられている。 松の木=街道という気がするから不思議だ。
道路地図を見ると、この辺の北が小和田となっており、さらに北が菱沼となっている。
東小和田の信号の手前20mの右手に明治天皇の休憩の石碑があった。
ここが牡丹餅の立場か…と思ったが、帰ってから調べてみると茅ヶ崎高校のバス停付近に 菱沼の立場があったようだ。


【相模国風土記稿】小和田、菱沼は犬牙して分ち難し…
小和田村:広15町、袤12町余、戸数110、東海道幅6間、中間に小流あり、 橋を泪橋と唱ふ、鎌倉時 茅ヶ崎村に刑場ありしよりの遺名なりと云ふ、又、大山道、 幅一間半係れり、海浜に炮術場あり、高札場:牡丹餅、街道立場を云ふ …
菱沼村:戸数54 東海道村の中程を貫く…


小和田、菱沼は入込んでおり、そこに牡丹餅の立場があったようだ。
また、小和田の大山道は上記の県道44号(伊勢原藤沢線)であろう。
また、泪橋の小川は今は無いようだ…
更に西に歩いて小和田のバス停近くの、国道左の路地の突き当たりに地蔵さんが有った。 その向かいには道祖神が有った。おそらく昔は街道沿いに有ったものが、道路の整備時に移 されたのではないだろうか?普通地蔵さんには名前がある筈だがここの地蔵さんには名前は 見あたらなかった。
小和田から松林そして本村に入る、本村の茅ヶ崎高校前には東海道の茅ヶ崎の松林の説明文 が有るが、文に有るような大きな松は殆ど見られない。松林の地名からも昔は大きな松が街 道沿いに生えていたのだろう。また、本村という地名から、このあたりが昔の茅ヶ崎村の中 心だったのであろう。国道に沿った本村は高台になっており、北側は土地が低いため、右手 を見ながら歩いて行くと尾根沿いの山道を歩いているような気がする。
茅ヶ崎高校より藤沢方向を.. 海前寺 本村を西に歩いて行くと右手奥に海前寺が見えた、境内に入って見ると、徳川2代、9代将軍 の供養灯篭が有った、なぜこんな所に....と不思議に思った。(疑問は後で解ったが…)
サティ前を抜け元町(JR茅ヶ崎駅前付近)に差し掛ると、街道はゆるい下り坂となる。 若干道路は左にカーブし、先の信号の所に木が何本か生えている一角が有る。
これが茅ヶ崎一里塚で、江戸から14番目の一里塚とのことである。
【相模国風土記稿】 茅ヶ崎村:戸数416、東西28町、南北22町 東海道村内を貫く、中程に一里塚あり、 南方海浜に炮術場係れり、元弘3年、新田義貞、鎌倉を攻し時、村内十間坂辺放火せし事....
高札場 南湖:其地、頗(すこぶる)広し、土俗南湖村と呼て、別村の如 し、六本松:此地は鎌倉時世の刑罪場なり、石神:朝鮮人来聘の時は此地に茶店を置くを例と す、十間坂、本村田、高砂、鳥井戸...

この辺は駅からの道路との交差点が2つ続くため車も多く、常に混雑する場所である。 東海道を歩き始めてから、一里塚を通る度に何らかの満足感というか達成感を覚える…。 一里塚で写真を撮っていると、通りすがりの人々が何をしているのか?…といぶかしげに 見ているのが感じられる。
茅ヶ崎一里塚 旧寛永寺灯篭 一里塚の次の十字路の右側に徳川家の灯篭があった。説明文を読むと、上野寛永寺の戦後 の復興を援助した人たちに歴代将軍へ全国の大名が奉納した供養灯篭を贈られたものとの こと。
海前寺の灯篭も同じ理由であそこにあったのだろう。


第六天神社 南湖より鳥井戸橋を望む 街道は茅ヶ崎郵便局の前を通り十間坂となる、そして第六天神社を通る。(新田義貞が… と書いてある)街道は下りながら右にカーブしていき、地名が南湖(NANGO)となります。



日もだいぶ傾いてきました。カーブを曲がりきると若干の上り坂となり、その上が千の 川、鳥井戸橋(左富士)です。街道正面には大山が見えました。
東の空は晴れ上がっていたのですが、西の方、特に富士山の方は黒い雲があり、残念なが ら富士山は見えませんでした。写真の赤い鳥居は鶴嶺八幡宮の鳥居です。 橋のたもとには南湖左富士 の石碑と説明の看板が立っていました。
鳥井戸橋手前、正面は大山 鳥井戸橋 鳥井戸橋 南湖左富士の石碑

赤い鳥居をくぐるとすぐ右手に「弁慶塚」の道標が有り、民家の入り 口には、民家の中庭に塚が有るむねのたて看板がありました。早速入ってみるとひっそり と塚がありました。

塚の説明文には、
武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、 建久9年12月28日その落成供養を行った。源 頼朝は多数の家臣を引きつれ、この式 に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途、鶴嶺八幡宮付近にさしかかった 時、義経、行家ら一族の亡霊があらわれ、乗っていた馬が棒立ちになり、頼朝は落馬 して、重傷を負い、翌正治元年1月死亡した。後年里人たちは相計り義経一族の霊を 慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えられる。
とありました。
この辺が風土記の浜之郷です。
【相模国風土記稿】浜之郷村:東西8町許、南北15町、戸数38 東海道村 内を貫けり、眺望犬佳なり....千ノ川:東南界を流る、弁慶塚:街道の側にあり、周囲30間 ……
鳥井戸橋より富士山方面を... 鶴嶺八幡宮鳥居 弁慶塚 弁慶塚を見て、鶴嶺八幡宮へと足を向けましたが、ほぼ1Km続く松並木と、15:40と いう時間を考え、途中で街道に戻りました。次の機会に是非、参拝したいと思います。
鳥井戸橋から200m程歩くと街道は大きく左にカーブし、曲がりきった正面上に新湘南 バイパスの高架と、小出川に架かる下町谷橋が見える。
このあたりが下町谷です。
【相模国風土記稿】下町屋村:民戸42、東西3町、南北9町…

街道の左手に小さな神社があり、その境内の小さな祠に道祖神が祀られていました。 街道に戻り、歩いてい行くと川の土手で、上り坂になる手前の左側に街道名物の 饅頭屋が有ります。ここを通る度に若干気になっていたのですが…本当に名物なのだろう か…。そのうち食べてみたいと思います。
土手の坂の途中で左に降りる道があり、すぐに、小さな池と桜の木のある小公園が見える。 それが旧相模川橋脚跡の公園である。
旧相模川橋脚跡の公園 旧相模川橋脚跡の公園 旧相模川橋脚 旧相模川橋脚跡
大正12年(1923年)関東大震災にてそれまで広がっていた水田地帯のこの地に 突如7本の大木が出現し、人々を驚かせました。 調べた所、この大木は建久9年(鎌倉時代1197年)に相模川に架けた橋の橋脚と判明しました。 幕府が鎌倉に移されてまもなく、源頼朝の重臣だった稲毛三郎重成が亡き妻(頼朝の妻、政子の妹) の冥福のために架けたのがこの橋だと言われています。 (また、橋の何カ所かが朽ち損じていたのでこれを修理したとも言われている。) いずれにしても、建久9年12月27日に頼朝はこの橋の完成祝いの「橋供養」に出かけた。 その帰りに馬から落ちたらしい。「還路に及びて御落馬有り」(吾妻鏡)「帰路に おいて落馬、病を受けて気了ゐ」(尊卑文脈) また伝説として頼朝は自分が命令して殺害させた弟の義経と範頼の亡霊が川の面から 浮かび上がるのを見て気を失い、驚いた馬とともに川に飛びこんだので馬入川とも 呼ぶようになったともいわれている。
鶴嶺八幡宮の鳥居の側の弁慶塚の説明文とは若干異なる…。
現在の相模川から約1.2Kmほど離れているのは 長い年月の間に川が氾濫を繰り返し徐々に西へ移動したのだと考えられています。 橋脚はヒノキの丸材で、最大のものは周囲2mもあり、その間隔から橋幅は7mと 推定され、当時としては全国でも稀な大橋であったと推測されています。 大正15年10月20日国定指定文化財に認定されました。 2001年の発掘で新たに2つの橋脚が見つかり、橋脚は計9本となった。 写真の筒上のものは、橋脚の傷みが激しく保存のため常に水を掛ける様にして いるようだ。(以前はそのまま見れたようだが…)
橋脚跡を見て、下町谷橋を渡ると「今宿」で、地名から小さな立場でもあったのか?
と思い帰り、調べるも、立場らしきものは無かったようです。
【相模国風土記稿】今宿村:家数33 広5町許、袤6町 古相模川:東海道 の係る処、板橋を架す、長6間半、今宿橋と呼ぶ、長50間許の処は幅30間あり、さながら池の 如し…

古相模川の痕跡も地図で調べても今は全くない、河川改修で小出川とが一緒 になったのか…?

今宿を過ぎ、現県道45を越えると「中島」である。その地名からして昔は相模川 の中洲の島、即ち中島だったのでは…その後、度重なる川の氾濫を経て、上記の 通り川が西へ西へと移動し、地名だけが「中島」として残ったのでは…ついつい そう考えてしまう。
【相模国風土記稿】中島村:広袤皆五六町 民戸50 東海道村内を貫り、 海道の傍に状部屋と号する所を置、官辺及尾紀二候を初め書状往来の時中継す、相模川の岸 に流作場及芝地あり……
道祖神 そんなことを考えながら歩いていくうちに、相模川が見えてきた、馬入橋だ、 橋を渡る手前の道路右手に道祖神が有った。 大磯から二宮そして小田原の東海道では数多くの道祖神が見られたが、今日、 歩いてきた道を振り返るとその少なさに首を傾げたくなる。きっと裏道かどこかに ひっそりと道祖神が有るような気がする。 夕暮れのなか馬入橋を渡った。富士山は見えないが、大山が綺麗に見えていた。
川を渡り、旧道をたどり、JR平塚駅から帰途に着いた。 意外と疲れた。
これで保土ヶ谷から小田原まで繋がった。
馬入橋より大山を望む 浮世絵 平塚
















東海道風景図会 平塚

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