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武相国境の道
ぐめやうし(弘明寺)道の参考書である 阿部 正道氏の「かながわの古道」に次の記述がある。
下ノ道は弘明寺の裏を通り、中里を経て別所と最戸の境の餅井坂にかかる...
現在の道は山裾を通っているが、鎌倉以前は尾根道を通っていたのだろうか?
こんな疑問を持ちつつ、あちこちを歩いている時、国道1号線沿いの平戸の東福寺に「右 是よりくめう..」と刻まれた
道標が見つかり、この道を探って見る事にした。
東福寺の道標以外に、東福寺の西北西の平戸町199のマンションの敷地内に2つの庚申が有り、
その内の1つには「是より永谷天神ミち文政5年 祈願 般若寺」もう1つには「東福寺 文政3年」
と刻まれているものが有る。
これらの庚申から東福寺の弘明寺の道標は現、環状2号線に沿った谷の道を通り、般若寺、永谷天神
を経由し、永野小の弘明寺の道標のある庚申に繋がるものと考えていた。
しかしながら、上永谷から平戸への環状2号線を何度か通る内に(この辺の環状2号線は山と山に挟ま
れた谷の道である。)右手の山に現在の道と平行して続く尾根道が有るのでは....?と思うように
なった。
残念ながら、道路地図を見ただけでは尾根道か否かの判別は付かないため、実際に歩いて見ること
にした。
古道を調べても、尾根の道に関する資料は見つからず迷ったあげく、弘明寺から尾根道を探り、
スタートすることにした。
弘明寺の裏手にあたる、京急弘明寺駅の急坂を登ると弘明寺公園である。
結構の高台で、公園からの眺望はすこぶる良い....。
写真のすぐ足元下に京急の線路が通っているが、尾道が線路を挟んで左手前方(東北の方角)
まで先に続いている。(弘明寺2で記述....)
とにかく尾根道をたどり西に向かい歩いてみることにした。
下の道からはかなりの高さがあるのだが、道の左右はびっしりと住宅が立ち並び景色は残念ながら
見れない。
それと、古道の面影も全く無いのにはガッカリ...
尾根道はゆるやかな上り下りと、ゆるやかなカーブで続く....
途中、内手坂という左に一気に下る急坂があるがその名前といい何か云われでもあるのでは...
中里4丁目を過ぎると1部、左手の視界が開ける所があり、餅井坂方面が望める、結構な標高である。
そこから道は左に、右に折れゆるい下り坂となり、再び中里台への上り坂となる。
(途中、左に下る道が有るが、この道を下ると白山神社のすぐ左脇を通るが、そこに庚申が1つある。
別所インターからの道と合流し(左折し)、下っていくと右手の餅井坂と合流する。)
中里台に上りきると道はまた尾根道となり、別所小学校への下り坂となる。
別所小学校の脇の道を上り、横々のインターの上を通る橋を渡るとT字路となる。
T字路を左に行き、横々の上を通り反対側に出ると右手の住宅の塀に庚申がある。
左面に寛政10年の銘と於とつか、右面には武相...別所村 右 ぐめやうじとある。
刻まれた字からもここが武相国境の道の1部である事が判明した。
この辺の現在の道は横々のインターチェンジの工事で寸断され複雑になっているが、
その昔は中里台からのゆるやかな上り坂の道がこの庚申のところまで続いていたのだろうと
思われる。(地図の青い部分参照)

来た道を戻り先ほどのT字路を北西にしばらく進むと、Y字路となる、その正面にまた庚申が有る。
正面には 寛延元年 弘明寺道 左面には左 戸塚道 右面にはここにも右武品相品境道と
刻まれている。
車がようやく交差できる位の狭い道だが尾根に沿って道は続いている。
更に庚申から700m位、歩いていくとゆるやかな下り坂の右側に地蔵がある。
標柱には勘九郎地蔵跡とある。
元々あった地蔵は港南区大久保の自性院というお寺に移されたらしい。(道が利用されなくなり、
人通りの多い所に移されたのだろう。)
地蔵堂にある石仏の右面には「右 くめやうし」「左 とつか?」明和9年と刻まれている。
また、地蔵の説明の標柱によると、「この地を久保村七里塚と云えり、境内に椿の大樹あり、
椿地蔵とも云えり..」とある。
勘九郎地蔵:万治三年(1660年)とかかれた古いお地蔵さんで、国ざかいの道を
を勘九郎という名の歌舞伎役者(薬売りともいわれている)が先を急いでいました。
このあたりは,昼間は多くの旅人や村人が行き来しますが,夜ともなれば,さびしいところで、
翌朝、村人が見たのは,その勘九郎の変わりはてたすがたで、おいはぎにでもおそわれたのか,
身ぐるみはがされて,息たえていました。
村の人々はあわれんで,手あつく葬むり,石のお地蔵さんをつくりましたが、間もなく,近く
の村では悪い病気がはやり,多くの人々が死んでいきましたが、なかなか病気は治まらないため
勘九郎のたたりでは、と勘九郎地蔵にいろいろな物を供え,たたりをしずめるようにいのりました。
するとどうでしょう。ふしぎなことに,悪い病気はぴたりとおさまり,村人たちは,勘九郎地蔵の
おかげだと大変よろこびました。
そこから道は右にカーブし下り坂となり平戸桜木道路と合流するが。
現在地図上、道は無いが、その地形から行くと、そのまま直進し、更なる尾根道が有ったような気がした...。
ここから先は全くの想像の道であるのでご了承願いたい。
右にカブーしてすぐに後ろの丘に上る道がある。(人が通れる道?(抜け道)がある。)
上まで上り見ると先の尾根道に続いているようであったが、どうも私有地のようで止む無
く迂回することとした。(写真参照)
迂回して想像される尾根道を歩く....正面に品濃坂の上のマンション群が見える。
結構の高台で一気に真直ぐ下るのか、平戸台小学校を迂回するのか解らず、歩き回った。
歩きまわっているうちに寛文5年の銘のある庚申が見つかったが、尾根道からだいぶ離れた場所で
あった。
この庚申の付近を道が通っていたならば...等々色々なコースが考えられる。
いずれにしても、ここから現1号線に沿った道に繋がり、最初に記した東福寺の道標、(従是弘明寺觀
宝永7年 是よりくめう...)そして平戸町199のマンションの庚申(文政5年)に繋がるのだ。
2004/02/24 掲示板にsasa-yanさんからの書き込みがあり、東福寺の道標は国道1号線の山谷交差点付近
から移されたとの事(戸塚歴史研究会「とみつか」に記載)これで山谷交差点と勘九郎地蔵跡が繋がった
。
今回の古道を探って、見っけた3つの道標により中里台から勘九郎地蔵までの尾根道が古道
であるという確証を得ることができたが、中里台から弘明寺公園までの尾根道が古道であるという
確証となる遺稿を残念ながら見つける事は出来なかった。
しかしながら、567年(永禄10年)頃の弘明寺門前は大岡川河口付近にあたり、湾内の舟
運の便があり、上総、下総、武蔵、三浦半島への足場として栄え、市場が開設され、商品流通の
地域的な中心地であったとの事、また奈良時代には下大岡村付近まで海が入っていたといわれて
いる。
このような地形でなおかつ、大岡川は「九十九曲り」といわれ、また山間部から河口までに流路が
狭いので、それだけ山地から土砂の流失がはげしく、川底にそれを堆積させてしまう結果となり、
そのため昔から大雨が降れば必ず洪水が起こり、数十ケ村に被害を与えたといわれており、山裾の
道では、洪水により道が寸断され、そのような事の無い尾根道が当時の主要道であった事は十分
考えられるのである。
古道の内、庚申の書かれた「武相国境の道」は、平戸から勘九郎地蔵を通り、中里台を右
に下り、白山神社の脇を通り、餅井坂と繋がるのは間違いないであろう。
勘九郎地蔵が江戸時代初期(1660年)のものから、武相国境の道の古さが想像される。
また、遺稿は見つけられなかったが、実際に歩いて見て、鎌倉時代には中里台の先の尾根道を
弘明寺、乗蓮寺、北向地蔵、保土ヶ谷と続く道(鎌倉下の道)が有ったとますます思った...。
また、勘九郎地蔵で目にした、久保村の七里塚が、どうも七里堀と関係が有る
ような気がしてしょうが無いのは私だけだろうか?....。
しかしながら「七」は多さを表す数とも云われ微妙な所だが....(七里堀も道程が7里有
った訳ではないようだし...)
短い距離であったが、古道への想いが益々募る探索であった。
掲示板にsasa-yanさんより「武相国境の道」についての書き込みが有り、それについてアップし
ましたので是非ご覧ください。
「さらなる武相国境の道」
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